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投稿コメント一覧 (17354コメント)

  • >>No. 24824

    よく言われることですが、

    永遠に流転せる「主体」なるものがないゆえに、

    仏教用語では「無我」であり、「無常」であるゆえに

    止まることなく流転を繰り返す「主体」を認める「六道輪廻」など「無」いというのが釈迦の立場だ。

    とよく近現代の仏教学者が主張しますが、それは違うのでは。

    「無我」、「無常」、「永遠不変の我」、「主体」がないからこそ「六道輪廻」は「有」るです。

    もし「永遠不変な我」、古代インドでいわれた「アートマン」が「有」るのなら、
    「六道輪廻」は永遠に「有」り続けて悟りとともに無くなることも

    「無」いのであれば永遠に消えたままで、無明の者たちが次々に六道輪廻しつづけることもない。

    要するに「無」いものが「有」るという無明(迷い)が、常に衆生を迷い続けさせているという事実は「無我」なるが故なんです。

    なにより
    この無明の現実が今も「有」り続ける「衆生の虚妄」があるゆえに大悲(如来)が誕生し、還相(利他菩薩行)がとこしえに続けられていきます。

    ここんとこをよくよく考えてみてください。

    上辺の学説、評論に惑わされることなく、無明=六道輪廻を解脱していきましょう。

    帰命不可思議光如来

  • >>No. 24826

    源信の「往生要集」を読んでいました。

    もっとはやく読んでおけばよかったと思いました。

    親鸞聖人は論註以上にこの書に影響されたに違いないと思いました。

    しばらくこの書を写しながら得たところを書いてみたいと思っています。

    南無不可思議光仏

  • No.6141

    Re: オキタ

    2012/12/18 21:29

    >>No. 6104

    おい、オキタ。

    わしの サル を ちゃんと答えられるまで 檻に入れておきなさい。

    わかったね。

    なむ

  • >>No. 24827

    年末でなんやかやと忙しくもうしばらくの御猶予を。

    なむあみだぶつ

  • >>No. 24828

    お待たせしました。ロムの方々。
    大掃除中なのですが、少し鼻水、くしゃみが出はじめたので、今日はお正月のお飾りと酒を買うだけにして、大事をとっています。

    忙中閑あり。

    年内に始めておきます。

    ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

    往生要集      源信著 石田瑞麿訳注
    (岩波文庫)
    平成二十四年 十二月二十七〜
             尽第四門半
    天台首楞厳院沙門源信撰

    それ往生極楽の教行は、濁世末代の目足なり。道俗貴賎、誰か帰せざる者あらん。だたし顕密の教法は、その文、一にあらず。事理の業因、その行これ多し。利智精進の人は、いまだ難しと為さざらんも、予が如き頑魯の者、あに敢てせんや。
    この故に念仏の一門に依りて、いささか経論の要文を集む。
    これを披いてこれを修むるに、覚り易く行い易からん。惣べて十門あり。分かちて三巻となす。一には厭離穢土、二には欣求浄土、三には極楽の証拠、四には正修念仏、五には助念の方法、六には別時念仏、七には念仏の利益、八には念仏の証拠、九には往生の諸業、十には問答料簡なり。これを座右のに置いて、廃忘に備へん。

  • >>No. 6706

    サンエばか 相変わらず なにも 導けない

    お前、自分で導けるとでも思っているのか???

    この似せ菩薩、すぐに尻尾を出しやがる。

    我執の南無阿弥陀仏。

    何がただ信じて南無阿弥陀仏だ。

    本願寺の似せ坊主たちの奢りそのものの口先だけの私は凡夫。

    腹の中では僧と門徒衆を差別し、ボサツ面して、凡夫、ボンプのままでいいんですと吸い上げる。

    いい加減にしなされ。

    折角寺に帰ったからと少しは期待もしたが、こんな戦前の偽善坊主たちの亡霊にとりつかれた説教するなら、だまってお母上の愚痴だけ聞いて静かにしてなさい。

    とにかくこの亡霊から解放されるには、ネットから離れ、社会の新鮮な空気にふれることだよ、偽ボサツ、みちおくん。

    なむあみだぶつ

  • >>No. 24829

     

    1当にしるべし、この苦は地獄よりも甚だしきことを。故に正法念経の偈に云く、
    天上より退かんと欲する時、心に大苦悩を生ず、地獄のもろもろの苦毒も、十六の一に及ばず

    これは天に生まれた者は楽だけ享受するわけではなく、その楽故に執着が強く、
    輪廻の時には他の六道にもまして苦しみを得るということです。

    若者が木の上に居る美女を得ようとして登っていくと、鋭い刃の枝や葉に身を切り刻まれ、やっと頂上に着くと、今度は美女が木の下に居て、木を這いばり降りるとまた切り刻まれる。
    こんな若者の叶わぬ恋情の悲惨さなど恐ろしい地獄が描かれていた。

    この書の末代までの影響力はこのようなさまざまな地獄集によるところが大ですが、
    ここではこの程度にしておきます。

  • >>No. 24831

    2、有為の諸法は、幻の如く化の如し 三界の獄縛は 一つとして楽ふべきもの
    なし 王位は高顕にして勢力自在なるも 無常既に至れば誰か存つことを得ん者ぞ 空中の雲の 須臾にして散滅するが如し この身の虚偽なること 猶し芭蕉の如し 怨たり賊たり 親近すべからず 毒蛇の箱のごとし 誰か当に愛楽すべけん この故に諸仏は常にこの身を呵したまふなり
    と。〈已上〉
    この中に具さに無常と苦と空とを演ぶれば、聞く者、道を悟る。


    源信は「無常→苦→空」と説き、厭離穢土を説く。

    いずれにしても我が身を厭い、仏にならんとする心なき所に仏道はない。

  • >>No. 24831

    往生要集 大門第一 厭離穢土

    往生要集 大文第一 厭離穢土

    深くお詫びして訂正いたします。

    なむあみだぶつ

  • >>No. 24834

    1 大文第二に、欣求浄土とは、極楽の依正(注.依は国土、正は国土に住む人)の功徳、無量にして、百劫・千劫にも説いて尽くすことあたはず。(中略)。
    今十の楽を挙げて浄土を讃へんに、猶し一毛もて大海を?らすが如し。
    一には聖衆来迎の楽、
    二には蓮華初開の楽、
    三には身相神通の楽、
    四には五妙境界の楽(注. 五つの感覚器官の対象である色(しき)・声(しょう)・香(こう)・味(み)・触(そく)の五境が清浄(しょうじょう)ですぐれているという楽しみ)
    五には快楽無退の楽、
    六には引接結縁(えんじょうけちえん)の楽、(注.縁ある人々を浄土に導き寄せるという楽しみ)、
    七には聖衆倶会の楽、
    八には、見仏聞法の楽、
    九には随身供仏(心のままに仏を供養できる)の楽、
    十には増進仏道の楽なり。

    「欣求浄土」とは、かの弥陀の国土、浄土とその国に住む聖衆の姿を讃嘆、賛美するということです。

    親鸞聖人はおそらくこれに倣ってのことと思われますが、
    今生での「現生十益」を挙げておられる。ちなみに挙げておくと

    金剛の真心を獲得すれば、横に五趣八難の道を超え、かならず現生に十種の益を獲。なにものかを十とする。
    一つには冥衆護持の益、
    二つには至徳具足の益、
    三つには転悪成善の益、
    四つには諸仏護念の益、
    五つには諸仏称讃の益、
    六つには心光常護の益、
    七つには心多歓喜の益、
    八つには知恩報徳の益、
    九つには常行大悲の益、
    十には正定聚に入る益なり。
     (信巻 お西浄土真宗聖典 注釈版)

    親鸞聖人においてはこのように今生での不退転の益が述べられることがほとんどです。
    聖人にとって大事なことは今生にて

    ≪金剛の真心を獲得すれば、横に五趣八難の道を超える≫

    ことであり、空・無我を悟り、他力の歓喜地に至り、瓦礫が金に変えられるごとく、如来の大悲心いただき、誰よりも強く深く仏にならんと願う者と現生でならしめられることでした。
    そんな者から決して退転しない者を『正定聚不退転の者』と呼ばれています。

    両者を比べてみると一見全く違うようにも見えますが、
    源信においても、これに近いことが既にあちこちで述べられています。
    天台の教学の「空・仮・中」をベースにしてです。おって触れていきますが
    親鸞においてはこの「天台教学」は表に出てきませんが、血肉となっていることが知られます。

    「往生要集」は親鸞においては表に現れてこない南無阿弥陀仏の内実を知る上でとても重要な書だと今回気付かされました。
    同じ横川の大先輩として尊敬もされ、多くを学ばれたことは間違いなく、
    ある意味「論註」よりも大きな影響をこの書は親鸞に与えていると思われます。

  • >>No. 24835

    補足
    この違いは一見して十九願の利益と十八願の利益との違いですが、
    底に通じる弥陀の大悲のあり様をこの書と「教行信証」との対比により見せられた今回の「往生要集」だったように思います。

  • >>No. 24836

    2 時に観音・勢至行者の前に来至し、大悲の音をだして種々に慰喩したまふ。行者蓮の台より下りて五体を地に投げ、頭面に敬礼したてまつる。即ち菩薩に従いて、漸く仏の所に至り、七宝の階に跪いて万徳の尊容をみたてまつる。
    一実の道を聞いて普賢の願海に入り、歓喜して涙を雨(ふ)らし、渇仰して骨に徹(とお)る。始めて仏界に入りて未曾有なることを得。行者、昔、娑婆に於てわずかに教文を読みたらんには、今正しくこの事を見て、歓喜の心、幾ばくならんや。〈多くは勧経等の意に依る〉
    竜樹の偈に曰く、
    もし善根を種(う)ゑて 疑えば則ち華開かず、信心清浄なる者は、花開けて則ち仏を見たてまつる。


    これは「二には蓮華初開の楽」の最後の部分ですが、

    《一実の道を聞いて普賢の願海に入り、歓喜して涙を雨(ふ)らし、渇仰して骨に徹(とお)る。始めて仏界に入りて未曾有なることを得。行者、昔、娑婆に於てわずかに教文を読みたらんには、今正しくこの事を見て、歓喜の心、幾ばくならんや。〈多くは勧経等の意に依る〉》

    《いま弥勒付属の一念は即ち一声なり。一声即ちこれ一念なり。一念即ちこれ一行なり。一行即ちこれ正行なり。正行即ちこれ正業なり。正業即ちこれ正念なり。正念即ちこれ念仏なり。則ちこれ南無阿弥陀仏なり。 
    しかれば大悲の願船に乗じて、光明の広海に浮かびぬれば、至徳の風静かに、衆禍の波転ず。即ち無明の闇を破し、速やかに無量光明土に至りて、大般涅槃を証す。普賢の徳に遵ふなり。知るべしと。》   (行巻)

    源信僧都が浄土の光景として顕したこの「蓮華初開の楽」は、
    まさに親鸞聖人が行巻のこの「行の一念」にて今生でそのままいただいた世界だということがよくわかりませんか。

    「歓喜して涙を雨(ふ)らし」「今正しくこの事を見て、歓喜の心、幾ばくならんや。」

    この≪歓喜≫は「始めて仏界に入りて未曾有なることを得」とありますから、
    親鸞聖人の云われた菩薩地である「歓喜地」と見てよいです。

    最後に竜樹の十住毘婆沙論易行品から引いて、たとえ善根を植えても、疑えば花開かずと。

    既に信心を要とする浄土教の根本がここで説かれています。

    まさに 竜樹から両者に通底する大地下水脈です。

    清浄なる信において、死後であるはずの未来浄土に今ここで生まれて、
    普賢の願海に入り、歓喜地に至り、因位に立たされる。

    歓喜とともに心引き締まるおもいがします。

    源信に於いても、竜樹のこの偈を最後に持ってきたということは

    清浄信心が過去・現在・未来を刺し貫く、自他の壁が消えうせた一如世界への通用門であることを知っての上のことだと見えます。

    ちなみに普賢の十大願を挙げておきます。

    普賢の十大願

    一に 諸仏を礼敬する。
    二に 如来を稱讃する。
    三に 広く供養を修める。
    四に 業障を懺悔する。
    五に 功徳に随喜する。
    六に 転法輪を請ふ。
    七に 佛の住世を請ふ。
    八に 常に佛に随って学ぶ。
    九に 恒に衆生に随う。
    十に 普くみな回向する。    (江部鴨村 和訳華厳経)

  • >>No. 24837

    3 処はこれ不退なれば永く三途・八難の畏れを免れ、寿もまた無量なれば終に生老病死の苦なし。心・事相応すれば愛別離苦なく、慈眼もて等しく視れば怨憎会苦もなし。白業の報なれば求不得苦なく、金剛の身なれば五盛陰苦もなし。一たび七宝荘厳の台に託しぬれば、長く三界苦輪の海を別る。もし別願あらば、他方に生るといえども、これ自在の生滅にして業報の生滅にはあらず。なほ不苦・不楽の名すらなし。いかにいわんやもろもろの苦をや。
    竜樹の偈に云く
    もし人かの国に生るれば、終に悪趣と、及与び阿修羅に堕せず 我いま帰命し礼したてまつる。

    帰命し、まさに生まれんと欲する者の 微妙なる世界。
    苦なし、大悲のみありの虚空と地にあって等し。
    決して虚空にはおらず、同体ではなく、等しの妙。

    信の世界の不可思議が竜樹の偈をもって説かれる第五「快楽無退の楽」です。

  • >>No. 24838

    4 また華厳経の普賢の願に云く、
    願はくは、我命終わらんと欲する時に臨んで、尽く一切のもろもろの障碍を除いて、面(まのあた)りかの仏、阿弥陀を見たてまつり 即ち安楽の刹に往生することを得ん 我既にかの国に往生し已れば、現前にこの大願を成就し 一切円満して尽く余すことなく 一切衆生界を利楽せん
    と。無縁すらなほしかり。いはんや結縁をや。
    竜樹の偈に云く、
    無垢荘厳の光 一念及び一時に 普く諸仏の会を照し、もろもろの群生を利益す
    と。

    大乗の菩薩の最高峰、釈迦の脇侍たる普賢菩薩も阿弥陀様の菩薩。
    弥陀仏の浄土に生まれてよく大願を成就し、一念一時、即ちこの娑婆世界の時空を超えて一如世界に生まれ、衆生をこの一如涅槃界に生まれさす。

    普賢の徳に遵う者が弥陀の菩薩ということがここでも明示されています。

    第六の「引接結縁の楽」にて書かれています。

  • >>No. 7397

    ほらほら また始まった 親鸞別格扱い の ご都合主義の本願寺教団の逃げ口上が。

    参禅の経験三年あるさんねのことも知らんと

    参禅もしない評論・外観老師を本物と見間違う、豚ザルくん。

    あの遊女たちは 親鸞聖人の横川の修行以上に この娑婆の道場で喘ぎ苦しんでいた。

    どうしてこうも 親鸞聖人を祭り上げるくせに 親鸞さん などと不遜にも言えてしまうのか 全くわからん。

    ニセであることが またここでも暴露されてしまった。

    聖人の真の姿が見えておらぬと。

    なむあみだぶつ

  • >>No. 7410

    お前はブッダを語る資格なし。

    仏教の基本、ブッダをブッタたらしめている仏教の基本中の基本をわきまえぬニセ。

    もっともらしい、思わせぶりな 嘘は もう誰にも通じない。

    きみの 単純馬鹿信 は分別事の良識人たちには新鮮に聞こえるが、

    騙しきれはしない。

    なぜ?

    みんな上辺の 他人事 自分事 だからだよ。

    ニセはニセの共感と他人事の信心で わかったちゃん ばかり集めて ニセの上塗り。

    まことなし。

    きみにブッダも、阿弥陀如来も、親鸞聖人も語る資格はない。

    なむあみだぶつ

  • >>No. 7408

    ばかな。

    この「娑婆の修行」の認知なしには、親鸞の南無阿弥陀仏はない。

    まさに信前無明の苦しみから逃れんとする計らい。

    これを求道とも、自力のはからいともいうのだよ。

    すべては過去世の業縁にしてしまい、身体障害者さえその報いと放置する。

    業縁とはな、因縁生のどうにもならなさをいい顕わしているんだよ。

    この因縁生である己も、他をも、この娑婆世界をもどうにかししようとするところに宿業が生まれる。

    お前は業縁の何たるかも知らん。

    ただ三世の因縁業だと己の過去世の何たるかも知らずに。

    「宿命通」もいただけてもいない者が何をほだくか、アホンダラ。

    わしは既に 過去を諦め 未来を明らかに知った 永遠の今 を生かれ生きておるぞ。

    耳を澄ませて聞きなされ。

    源信僧都の「往生要集」、よくよくきいていくんてですぞ。

    載せていくからな。

    なむあみだぶつ

  • >>No. 7415

    お前は 言葉 でわかっているだけ。

    この世の虚仮を。

    空・仮・中の中を知らぬ愚か者。

    仮の宿だからこその涅槃なんだよ。

    涅槃の常楽我淨がわからんで、なんの仮よ。

    言葉だけの 不遜の虚仮 南無阿弥陀仏までただの言葉と理解してしまう分別脳。

    ニセがニセを呼ぶ構図がまた露呈してる。

    この外観・分別の外道。

    釈迦を 阿弥陀如来を 親鸞聖人を 誹謗し続けるのは やめなさい。

    失せなされ。

    さもなければ オキタに 死刑台の準備にはいらせるぞ

    わかったネ。

    今夜はここまで。

    もう寝るぞ。

    ネット中毒早く治しなされ。

    なむあみだぶつ

    なむあみだぶつ

  • >>No. 24839

    5 かのもろもろの菩薩聖衆の徳行は思い議(はか)るべからず。普賢菩薩の言く、
    もし衆生ありて、いまだ善根を種(う)ゑざるもの、及び小善を種ゑたる声聞・菩薩は、わが名字を聞くことを得ず。いわんやわが身をみんことをや。
    もし衆生ありてわが名を聞くことを得ば、阿耨菩提においてまた退転せず。
    乃至夢の中にて、我を見、聞かん者もまたかくのごとし。


    「もし衆生ありてわが名を聞くことを得ば」を親鸞聖人は

    「悲しきかな、垢障の凡愚無際よりこのかた助正間雑し、定散心雑するが故に、出離その期なし。自ら流転輪廻を度(はか)るに、微塵劫を超過すれども、仏願力に帰し叵(かた)く、大信海に入り叵し。良(まこと)に傷嗟すべし、深く悲歎すべし。

    おおよそ大小聖人、一切善人、本願の嘉号を以ておのれが善根とするが故に、信を生ずることあたはず、仏智を了(さと)らず。かの因を建立せることを了知することあたわざる故に、報土に入ることなきなり」。  
    (化身土巻)

    弥陀の名を聞き得る「大善」とは『弥陀廻向の信』であることを三願転入のこの一節で述べられていて、この源信の一節もそう読まれたに違いないのです。

    そして夢の中での顕現をはっきりと認めてられる。
    現代人が忘れてしまった彼の土との大事な「感応道交」ツールとしての夢告です。
    親鸞聖人も京都六角堂の「女犯偈」をはじめ「夢告」を如来の直言と大事にされました。

    さんねの 三つの夢の出来事 の信任でもありました。

    なむあみだぶつ

  • >>No. 24840

    6 〈華厳経の意〉また云く
    我常にもろもろの衆生に随順して、未来一切の劫を尽すまで、恒に普賢の広大の行を修し、無上の大菩提を円満せん 普賢の身相は虚空の如し 真に依りて住すれば国土にあらず もろもろの衆生の心の欲する所に随ひて 普き身を示現して一切に等しくす 一切の刹の諸仏の所(みもと)に 種々の三昧もて神通を現し 一々の神通は悉く 十方の国土に周遍して遣(のこ)す者なし 一切の刹の如来の所の如く かの刹の塵の中にもまた然り
    と。 


    阿弥陀如来は ≪永遠の菩薩≫ だといわれる。
    この一節が実に見事にそのことを言い表しています。

    「いま弥勒付属の一念は即ち一声なり。一声即ちこれ一念なり。一念即ちこれ一行なり。一行即ちこれ正行なり。正行即ちこれ正業なり。正業即ちこれ正念なり。正念即ちこれ念仏なり。則ちこれ南無阿弥陀仏なり。 
    しかれば大悲の願船に乗じて、光明の広海に浮かびぬれば、至徳の風静かに、衆禍の波転ず。即ち無明の闇を破し、速やかに無量光明土に至りて、大般涅槃を証す。普賢の徳に遵ふなり。知るべしと。」   (行巻)

    信心の行者は阿弥陀如来の菩薩。
    まさに弥陀に行われて普賢の徳に遵う者となります。
    現生十益の「常行大悲の益」は正にこの普賢の大地に立たされたことを言われており、この大行のスタートを切るは今生。
    どうにもならぬ凡悪・瓦礫を今生でこんな者にするために弥陀はこの娑婆に顕れなさったのです。

    今生でこんな者とせられる事は、自然に姿、形なき無上仏となり、このような普賢の大願、大行を意のままに行じられる 弥陀同体の者とせられることを意味しています。

    “後生”のことはこのように今生で成就し、既に始まっているのです。

    大事なことは、これは自らの身・口・意のはからいで行うことではなく、

    ただ信じて南無阿弥陀仏の身に自然に顕現してくる大利益。

    ≪自然法爾≫ です。

    自ら己を無にしようとしたり、自ら己をはげましましたりしたら、即煩悩我執の凡悪の行となってしまう。煩悩成就の身ということです。

    こちらの側には何もない。

    これを ≪義なきを義とす≫ と親鸞聖人は言われました。

    ただ信じて南無阿弥陀仏の信心の行者の姿です。

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