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投稿コメント一覧 (523コメント)

  • >>No. 202

    〇死は自然の事象としてすべての人が受け入れなければならない事実としてある。

    死を考えたら救いはない、しかし、そんなに特別かというと、

    やはり生きていることの問題が優先されため、死は扱う問題とはなっていない。

    私は自然の中で生きて自然の中で死んでゆく単なる生物に過ぎない。

    これは生物としての人間の帰結点であるからある思考がなされなければならない。

    まず、死ということが自然の中での生物の生と死という問題と同じ問題であるということを理解する必要がある。

    自然界では常に生物の死と生が起こるべくして起こっているのであるが、人間はこの生物の死はまったく
    忘れているのが事実である。

    死が問題として成立しないのは生物が何のために生きているのかがわからないからだ。

    「問題とするならまず自らが死ぬという事実を受け入れて、これは個人の問題ではないと言い切ることが人間的な問題となるということだ。」

    「死」という言葉は個人の死とは違う事実を示しているが、この死が発生するのは間違いなく自然の場においてでしかない。

    自然の中では生物の生と死が日常的であるのであり、それにならって人間の死を自然の中に置いてみるべきなのである。

    「死」という言葉は自然の場において成立する単なる事実に過ぎない。

    しかし、人間もその自然の場から逃れることはできない、「死」はその自然の場で起こることに過ぎない、つまり、

    「死という言葉はそのような人間的な個人的な場の事象としてあるに過ぎないからだ。」

    死ににおいても個人でしかないのであるか。

  • 〇言語にとって死とは何か

    言語にとってというのはその前に生きている身体的人間がいるのである。

    その言語が発する死という言語についてである。

    死という言語が表すのは全てに人が死ぬという事実に基づいたアールラウンドな死という現象である

    のである。

    この場合に個別の死は含まれるような現象が生じてしまうのであるが死という言語にとっては個別の

    死は含まれないような現象として発生する。

    つまり自分の死は言語の死という言葉にに含まれているに過ぎないのである。

    この死について山折哲雄さんは「死に応ずる無という逃げ場がなくなった」と言っている。

    昔は死は帰るべき無というところであったのであるが現代はその帰るところがなくなってしまったの

    である。

    死はいまだ解明されない言語であるが毎日亡くなる人は感情もなく死亡広告によって知らされるのである。

    この死ということによって把握されている問題に対しては個人の死はの対処はなされていない。

    つまり自分が死ぬという事実とは違うがこれが言語にとっての死という問題であるということである。

    人間は死という言葉を使いその事実も知っているが、このオールマイティーの死という言語には自分

    の死も全体の死も含まれているのである。

    つまり、自分の死はすべて死という言語によっているのであるが、言語の「死」という言語は個別の

    死を超えて成立しているということである。

    過去も未来も今まで死んでしまった人は死という言語によってしか把握することができない。

    言語の「死」という言葉は何か、私が死んでもなお生き残るのが「死」という言語である。

    この永遠に残る「死」という言語は何なのか、生きていても死がある、死んだら文字通り死である。

    言語は私が死んでも生き残る、その永遠さは私の生命と死という関係であるのか、それともなお生き

    残る言語として「死」があるのであるか、このような問題が提示されている。

    人間が死んで自然に帰るならば個別の死はない、自然に帰ることが死という言葉ならば「死」という言葉は

    すべての生物の死を言っているとも受け取れるのかもしれない。

  • つまり「私たちという問題」を受けついだのである。

    これは人間は動物ではないという宣言に等しいが、動物以外の有り様はないのである。

    さあ、私は「私たち人間」という問題等しい問題となった。

    この問題を解決するようなこと宿命を負った。

    いっそ人間は動物あると言えたら楽なのだ、人間は動物だからだつまり、

    死とはいなくなることと等しくなるからだ。

  • 〇最大の問題は死の問題であるー死とはこの世から自分がいなくなることである。

    死については問題になっていないし解答も制限されている。

    山折哲雄さんは「死という重荷からの開放が死という問題である」と言う。

    死は問題の最高峰であるが科学も哲学も解決ができていない、つまり問題とはなっていないのである。

    動物も魚も植物も人間に食べられるために生きているのである。

    この動植物を含めた生き方を見ると人間だけが生命を与えられるのかと言うとそれはわからないのである。

    動物にとってと人間にとっての死が違うとは思えない、生物はどのようにとっても単なる死でしかない、この問題からは逃れられないが、ただ人間が死を問題にしてないだけなのでである。

    それでは人間にとって死とは何か、それは、単にいなくなることに過ぎない、現状は何も変わらない。

    もし自分が死んでも現状は変わらない、動物の死とも等しい。

    私を救うことが出来るのは死を解明することなのであるがいまだ誰も死についての解答を示していない。

    もし私が死んでいなくなっても何も変わらない、この世から自分がいなくなっても社会は変わることなく動いてゆく。

    「死については、私は単にこの世からいなくなるだけだ、世界は何も変わらない。」

    解決はない、何の解決もない、ただ死に体する無視がはびこっているだけだ。

    死とは自分がこの世からいなくなることである

  • 〇願わくば 西行の夢 叶いたり
          桜舞い散る 繚乱の春   mycmpot7

    西行は桜を愛し桜とともに死なんとする。

    〇願わくは 花の下にて 春死なむ
          その如月の 望月のころ   西行

    如月は2月である、まだ桜は咲いていないかもしれない、しかし、桜は咲いていなくてもいいのである。

    〇なにとなく 春になりぬと 聞く日より
           心にかかる み吉野の山  西行

    〇吉野山 こずゑの花を 見し日より
           心は身にも そはずなりにき  西行

    吉野の山は桜のふるさとであり、西行は多くの歌をつくっている。

    はたして如月の2月に桜は咲いていたのであるか、旧暦の2月は今の3月20日ごろである。

    桜はすでに虚空に咲いていたのである、その桜が現実に結びついている、それが夢なのである。

    現実は桜の破片であり、桜は虚空にすでに満開になっていたのである。

    桜はすでに満開である、その花のもとで死にたいということが西行の願いである。

    花は咲いていたのか、それはどうでもいいことである、その現実は夢の確かさでしかない。

    花は満開に咲いていたに違いないのである。

    〇願わくば 西行の夢 叶いたり
          桜舞い散る 繚乱の春   mycmpot7

  • 〇全山は紅葉 一葉の 曼荼羅絵

    山は一面の紅葉である。この素晴らしい景色のなかにもうひとつの美しい風景が浮かび上がる。

    それは紅葉している一枚の葉を見るとき、そこに美しい全体の紅葉の風景を浮かべることができるということである。

    美しい全山の紅葉はこの一葉に集約しているのである。

    つまりこの一葉から全山は想像できるのである。

    〇芋の露 連山影を 正しゅうす   飯田蛇笏

    作者は連山の美しい風景をを見たのであるが、視点を芋に移したため連山は視点がぼやけた影となったのである。

    作者が美しい山の風景よりも職業である芋を見つめそれを大切にしようとする思いが読み取れる。

    このように部分に焦点をあてると全体は想像としてあらわれる。

    一葉を見つめることで全山の紅葉はまるで曼荼羅絵のような風景として現れるのである。

  • 〇世界外存在

    世界内存在は人間を規定する画期的な存在論であるが、世界外はどうだろうか。

    言語はあらゆることを存在として示す。

    「私はすでに死んでいる」も「私は300年後に生きている」も「私は女である」も言語では真実としてあるのであるが、これが現実として事実であるかということが問題としてある。

    この場合「私の死」は世界外存在を示すやがて来る事実となる。

    私は生きているが「私の死」は未来の事実を示すものであり事実ではあるが俯瞰はできないものである。

    つまりそれは世界外存在として「私の死」はやがて事実となるはずだ。

    もし人類が「私の死」を共有することができたとしたら世界は世界外存在として展開してそれぞれの

    真実が時間的には不明な混沌におちいるであろう。

    死は必ず来る、これは生きていることとはまったく違う異質な世界外な事実として訪れるであろう。

    もはや宗教に頼るしかない、「あなたは永遠に生きる」と。

    世界は世界外として展開する、世界内にありながら愛も呪いも夢も希望も憧れも世界外としてある。

    留まり続けることはない、歩き、走り、歩道を行き、山道を行き、野球をし、サッカーをし、バレーボールをし、ゴルフをする。

    まったく予測のできない世界外にチャレンジするのが人間の姿である、愛や平和はチャレンジする人間の姿である。

    〇死とは他の人の存在から孤立したまったく孤独な事象としてある。

    〇この孤独の先に人間として生きることができるという無宗教な空間が世界外としてある。

    この空間を存在させることが世界外存在としての無とは違う新たな存在を明示させてくれるだろう。

    それが人間としてのチャレンジである、言語はあらゆることを可能にすることができるのであるから。

  • >>No. 195

    〇日本国憲法
     第一条 和を以って貴しとなす。

    憲法をこのように変えるとまことにわかりやすい。

    現在の憲法は
     第一条 天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であって、この地位は、主権の存する日     本国民の総意に基く。

    天皇が国の象徴であるとはどのようなことであるのかがわからないし、天皇陛下ご自身がどのようなことか考えてこられたことを昨年の放映でおっしゃった。

    日本のもともとの憲法にふさわしい文言とは聖徳太子の憲法十七条の第一条にある

       和を以って貴しとなす

    このような現にそうである日本を日本の憲法の一番目に据えることは昔から引き継いだ日本を表すにふさわしい文章である。

    日本の精神は昔から今に息づいている、その基本に「和」がある。

    憲法改正が問題となっているが第九条よりも変えるべき日本の成立に根ざした改正が必要である。

    日本国憲法
     第一条  和を以って貴しとなす。

  • >>No. 194

    〇呪いを祓いて和を成す      mycmpot7

    〇和をもって貴しとなす  聖徳太子十七条の憲法の第一条

    日本の伝統的な和の思想は簡単ではない。
    ただ仲良しになることだけでなく生存の同一性を得ることが求められるからだ。

    〇子曰く 君子は和して同ぜず 小人は同じて和せず   論語

    というようにただ同ずることが和ではなく同ぜず和することが大切なのである。

    日本に和が成立するのが難しいのは、これには日本の環境的な問題があり西洋の科学に支配されてい

    るため和がないがしろにされている。

    日本は海洋に浮かぶ島国であり自然環境に恵まれている。

    山あり谷あり林あり森あり植物も動物もたくさん生きているため食べ物に恵まれている。

    また一年中雨が降るため川や湖に雨水があり飲み水も充分にあるため足りないということはない。

    気温温暖で人間が生きていくためには可能な範囲にある。

    このような豊富な自然環境を背景に「和」が成立する、つまり「和」の背景には自然があるのである。

    ミレーの有名な「晩鐘」という絵があるがこの祈りを「和」と言えないのは背景が豊かな自然ではないからだ。

    祈りはみすぼらしい自然を背景に成立するのであると教えられるような絵であるが、このさみしい人

    間のあり方は「和」とは違うものである。

    そうは言っても、しかし日本の歴史は血なまぐさい権力闘争に明け暮れてきた、憎しみと妬みが呪い

    を振りかざしてきたのが日本の歴史であるといってもいい。

    この呪いを解決しなければ「和」は成立しない。

    この呪いを祓うことが和をなすことに必要である。

    夢や理想はある、この呪いを祓うことこそが和という理想を可能にするものであるはずである。

  • 〇呪いを超える思想を持つことが日本の課題

    日本の今の現状は呪いということが機軸にあってそこからどう脱却するかが課題である。

    呪いという言葉は日常には使われない言葉であって特殊な個人が丑の刻に藁人形に五寸釘を打ち込むこと位に考えられている。

    私はそうではないと距離を置くが、もっと呪いに従事してもいいのではないか。

    日本の伝統的な思想は呪いなのであって、祝福や祝いではないのである。

    呪いの対義語は祝いだとされているが祈りではないかと思われる。

    ひとが手を合わせて祈る、この時誰かの幸せを願うのが祈りだとすると、

    手を合わせて誰かの死や不幸を願うことが呪いとなる。

    このように呪いは日本にありふれた感情であり情動である。

    この呪いの先にあるものがない、神道ではない、日常にある呪いを祈りへと昇華させる情動である。


    呪  祝   祈   禊   祓


    おおらかな許しが望まれる。

  • 〇人間は動物である

    人間は社会的な動物であると アリストテレス は言った。

    社会的であるというところに動物である自分の立ち位置を定めたのであるが、時代はもはや社会を形成する動物を超えての個人の規定を問うようになっている。それならば言おう、私は動物であると。

    動物は自らが食べて生きていくことに全力を傾けているが、人間は違うと考えられている、少なくとも日本では食べることを超えた人間の規定が求められている。
    そして、食べることに充足した動物である人間は自らと他者を救うことに一生懸命になるべきだろう。

    しかし、人間を助けることはできるが人間を救うことはできない。
    なぜなら人間は動物であり必ず死ぬ。この問題については考察がなされていないからである。

    人間が社会的な動物になるためにはこの動物である自らの死を受け入れなければならないのである。

    動物は必ず死ぬ、この死んだあとの世界があると思っているのが人間であるが本当にあるかどうかは死んでみなければわからないというところに人間の置かれた根本的な問題がある。

    救いはない、死んでみなければわからないが、果たして死は自らを救うことはできるのか、

    つまり自分も人も救うことはできない、これが人間の限界である。

    救いはない、救えるものも何もない、これが神に対する訴えであり、神の問題の核心にある。

    それでも神様を信じるだろう、神様ありがとうございます今日も一日生きることができました。

    ただ頭を下げる、ありがとうございます、ありがとうございます

    私は生きたいから神様におすがりする。

  • 〇「おまえやるのか」とトランプ大統領は金委員長に言ったはずだ。

    まず軍事力がまるで違うから戦争になったら一瞬にして北朝鮮は負けるはずだ。

    強大な軍事力をバックボーンにして力関係は明らかである。

    この強大なアメリカの軍事力に対して北朝鮮がまだ戦争をしようとするのは愚かなことである。

    金委員長のすぐれたところはこの状況を指導者として客観的に把握しているはずだと、

    それが優秀な人という表現になってトランプ大統領から語られた。

    このことを実際に会って突きつけたはずである。

    まさか金委員長が逆手にとって「なんだやるのか」とは言えないことがわかっているからトランプ大統領は安心して会えたのではないか。

    実際に会って負けを認めさせようとしたのではないか。

    トランプ大統領は負けた敵をねぎらうような勝利に満ちた言葉を語ったが北朝鮮はほとんど語っていない。

    北朝鮮はアメリカの言うとおりに核を廃棄することに取り組まねばならないし検証にも応じなければならないはずだ。

  • 〇人間の付き合いは極端に言えば「ありがとう」と「ばかやろう」

    根本精神が「ありがとう」ということこそが付き合いの根本であり平和もこういう精神によって成立する。

    今回の米朝首脳会談によってトランプ大統領の記者会見で述べたことは北朝鮮に向けて「ありがとう」の思想を共有しようということだ。

    北朝鮮は周りはすべて敵であり、特にアメリカに対して「ばかやろう」と言い続けてきたのであり「ばかやろう」の思想をもっているからである。

    これは世界の平和を乱す最悪の思想である。

    北朝鮮は「ありがとう」とは考えていない、この思想の変換を迫っているのである。

    トランプ大統領の言いたいことは、「ばかやろう」ではなく「ありがとう」だろうということである。

    この思想の変換を問いていたのである。

    トランプ大統領は世界の平和への提言をしたのである。

    北朝鮮がホワイトハウスへ招かれて平和を協議するためにはこの「ばかやろう」から「ありがとう」への思想の変換が必要であるということだ。

    すべてのひとが「ありがとう」によってつながっていければ世界の平和は実現する。

    トランプ大統領はこの提言をしたのであって、これが北朝鮮の選択になると明言したのである。

    この世界の平和への提言について北朝鮮はついてこられるのかということが根本的な思想の問題としてトランプ大統領によって提言されたのである。

    これからの北朝鮮のあり方についての根本的な変革について提言したのである。

  • 〇眞原の 里には桜  甲斐の山

    山梨県北杜市にある桜の名所、甲斐駒ケ岳がくっきりと近くに見える。

    〇鎌倉の 仏に聞かす 新緑の山

    鎌倉と言えば鎌倉の大仏、大仏さんも新緑の山の話は聞きたいのではないだろうか。

    〇紫陽花を 見やりて里の  仏かな

    里にあるお地蔵さんは野にポツンと鎮座しているが、里には紫陽花が仏様を囲むように咲いている。

  • 〇人間は考える葦である    パスカル

    人間は自然の中では葦のように弱い、しかし考える力があるからすばらしい。

    人間は本来葦であるのか、獲物を求める動物であるのか。

    葦は植物であり、沼地にはえて移動することもない、光合成によって生きている直物である。

    人間は言葉を使う、言葉は話している場を超えてあらゆるところで言葉の真実を伝えている。

    これが現実である。

    このようにして生きている人間は決して葦のようなものだとは言えない。

    戦後日本は経済復興を成し遂げ、この路線によって利益を拡大しようとしてきた。

    この経済復興が欲望を充足させて、さらなる欲望を発掘してそれにあうように商品を開発してきたのである。

    これが儲けの論理なのであり、現実の動物的な人間をますます欲を求める動物へと変えていっている。

    人間は動物である、この規定を恐れずに現実を見据えてみると、考える葦は遠のいってしまう。

    人間は葦にはなれないが本来は葦のように弱いものであるはずなのだ。

    しかし、人間の欲望はあまりに大きくなりすぎた、もはや破滅へと向かうしかない、そのくらい人間の欲望は大きくなってしまった。

    葦はその生存を自然に委託している、風、雨、雪によってもたゆたい生き延びてゆく。

    しかし時代はもはや自然を凌駕して支配しようとする科学中心の世界となっている。

    この自然を破壊しての欲望の拡散の果てには滅亡しかしかないのではないか、そうかもしれない、

    自然破壊という人間の勝利はあるかもしれないがその次に、しかし来るものが自然復活である。

    自然は破壊しても再生し復活する。

    人間はその破壊して荒廃した大地に立ち始めて葦であるという自然復活への思いが沸き起こってくる。

    自然災害という暴利によって復活を成し遂げた自然が何もなくなった大地に示すメッセージ。

    〇人間は考える葦である    パスカル

  • 〇私は優しい人間である。

    このことについては私も他者も異論がないのであるから規定としては正しい。(笑)

    しかし、得意に語ったが優しくない人間の規定はない。

    唯一犯罪者は優しくないの分類になるかもしれないがこのような優しさの分類はないため悪い人と規定されてしまう。

    現在は競争社会であり競争に勝つためにがんばることがいいことだとされている。

    だから優しい人は評価ができないし社会の価値観からは評価の対象外になってしまう。

    ここで優しさを評価とする社会的な判断があってもいいし、そうしてもらいたいものである。

    オリンピックでは日本は3個の金メダルを取り感動をもたらした。

    特に女性がかっこよかった、日本は世界に台頭する成績を残した。

    この才能あるメダリストの思いが伝わってもらいたい。

    姿は美しい、オリンピックではその姿を見せたから感動を与える。

    私たちはオリンピックの選手に向けてはあるメッセジーを伝えるしかない。

    勝って欲しいというメッセージとして。

  • 〇人間ー優しいことと強いこと

    人間の規定が個人の「私」という規定に終始しているが、人間の規定は社会的な個人の規定こそが「人間」の規定にふさわしい。

    私が人間として他の人間に対する心構えは優しさである、決して強いことではない。

    昔は強さが繁栄の基礎であったのであり、それによって強い経済力を生み出していたから、これは資本主義の力であったのである。

    しかし強さである軍隊を強め他国を牽制することが資本主義の要であるのかということは現代の最大の問題点である。

    この軍隊の強力な強さの前で前時代的な弱肉強食の思想がはびこっているからである。

    この強力な軍隊の強さに対する思想こそが「優しさ」という思想である。

    これを考えるためには人間という問題に立ち返る必要がある。

    今は強い人間こそが人間としての価値を持っているとみなされていて優しい人間には価値が置かれていない。

    人間には強さと同時に優しさが必要であるが優しさの評価は価値としては評価されていない。

    人間は100%強くなることもできないし100%優しくなることもできない。

    強さを生きる人もいるし優しさを生きる人もいる、これは人の性格とも才能とも言う。

    この個人である私がが他者に対する取り組みこそ新しい思想の誕生である。

    今までは能力に秀でて強くなり他を追い抜き立身出世することだけに価値を見出してきた。

    しかし、新しい思想の誕生とは他者に対する優しさを主張する人間としての規定を決めることである。

    私は人間である、そして他者に対する優しさこそが私という思想の核心である。

    〇人間が追い求めている強さに隠れているのは弱さではなく優しさである。

    強くなることがだけが目標ではない、人間の本来は優しいものであるからである。

    能力がなくても優しさを共有したい人もいる、強くなることだけが人間としてのあるべき姿ではない。

    資本主義の曲がり角、経済を超えた人間的な発動こそが思想になるのである。

    〇私は優しい人間である。

  • >>No. 185

    〇ゴルフにおける取り組み

    ゴルフは難しい、なぜなら身体的な取り組みであるからである。

    この事象における取り組みがゴルフのスイングのスイングにおける取り組みにほかならない。

    私は左利きであり左利きの右打ちである。

    ゴルフにおける必要のことが二つある。

    それは、〇右肘を体を通す。〇アドレスで右肩を落とすことである。

    左は視点である、左こそが主点である。

    タイガーウッズはアドレスで右肩を落としている、これは左をスイングの基軸にしているから現れるスイングの基軸である。

    同様に

    右打ちのスイングの基軸は左である。

    これは右利きであるが左打ちをしているイチローに学ぶことが出来る。

    右打ちのゴルフでは左が主体である、この左を主体にする、スイングはこの主体性の変換にかかっている。

    私はもともと左利きであるのだが、この左が主体であるという思考によってスイングをきわめたい、それが願いである。ここにチャレンジがある。

    左はマイナーな主体である、だから右肘は左に通すことができる。

    願わくばもう少しスコアーを上げたい、ゴルフの真実がスコアーに反映されるように、練習を重ねている。

    身体が自然と目標を目指すようなスイングが理想である。

    この身体に託す思想こそゴルフの真髄ではないかと思われる。

    〇体は目標を見ている





    > 〇思考における勝利とはそれは断念である。
    >
    > 思考という永続的な真理に向かって学問という思考が展開している。
    >
    > しかし、これには決して勝利はない、勝利とは断念でありこれによって明らかになることがある。
    >
    > それは自らの生命であり寿命のことである、この問題に答えないからいきなり問題が閉ざされてしまうことになる。
    >
    > 真理を見つけたい、このstepを続けるものは勝利を得ることが出来るのだろうか。
    >
    > 私という身体が思考によって完全に把握されていないから身体は勝手にある判断をして負ければ、がん細胞にゆずることになってしまっているのである。
    >
    > 考えることは自らの生命ではなく人類の生命の永続性である。
    >
    > 親は子供に引渡し子供はまた孫に引き渡してゆく、これが原則であるからこれを思考に加える必要がある。
    >
    > しかし物理的な真理と生物的な真理との格闘に思考のプランはない。
    >
    > だから思考はいつか断念される、この思考の断念こそが勝利である。
    >
    > その断念の先に現れる生物、それは狂気かも知れない。
    >
    > その現れた狂気、それこそが生物としての人間なのかも知れない。
    >
    > 「先はない」これこそが極限の思考である。
    >
    > 思考を断念するかまだ思考を進めるのか、断念としての生物とは何か。

  • 〇思考における勝利とはそれは断念である。

    思考という永続的な真理に向かって学問という思考が展開している。

    しかし、これには決して勝利はない、勝利とは断念でありこれによって明らかになることがある。

    それは自らの生命であり寿命のことである、この問題に答えないからいきなり問題が閉ざされてしまうことになる。

    真理を見つけたい、このstepを続けるものは勝利を得ることが出来るのだろうか。

    私という身体が思考によって完全に把握されていないから身体は勝手にある判断をして負ければ、がん細胞にゆずることになってしまっているのである。

    考えることは自らの生命ではなく人類の生命の永続性である。

    親は子供に引渡し子供はまた孫に引き渡してゆく、これが原則であるからこれを思考に加える必要がある。

    しかし物理的な真理と生物的な真理との格闘に思考のプランはない。

    だから思考はいつか断念される、この思考の断念こそが勝利である。

    その断念の先に現れる生物、それは狂気かも知れない。

    その現れた狂気、それこそが生物としての人間なのかも知れない。

    「先はない」これこそが極限の思考である。

    思考を断念するかまだ思考を進めるのか、断念としての生物とは何か。

  • 〇資本主義は身体的システムである

    資本主義が行き詰っている。
    何より日本がITにより日本の生産性が生きどまっていることが大問題だ。
    しかし生きている人がいなければ会社は動かないし生産性がストップしてしまう。
    資本主義は金の取得だけを目的にしているから人がいなければ会社が動かないし生産もストップしてしまうことに気がついていない。
    会社が単に登記するだけで成立する現状では人がいなくても会社が成立するということになってしまっている。
    商法では資本金が1000万円必要であったし発起人も7人以上必要であったが今の会社法では資本金1円発起人一人でも会社が設立できる。
    この成立した会社で働く人を考えていないのでいくらでも会社が成立できる。

    いまは資本主義も行き詰まって金以外の必要性を問われているといってもいい。
    つまり会社という架空の本質に対して逆に必要な思考が身体的な問題であるという思考である。
    個人は生きて健康でなければ働くことができないし健康でなければ会社のために貢献できないようになってしまうということである。
    この問題は人間がいなければ経済も成り立たないというあたりまえのことに気づくことにある。
    会社がよりよく成立するためには金よりも必要な働いている人間に注目することが必要である。
    生きている人が世界をつくっていることが資本主義を成立させるためにもっとも必要なことだ。

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