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投稿コメント一覧 (47371コメント)

  • >>No. 13715

    返信をありがとうございました。

    >言葉も記号だ

    では、次のうち、どちらが正しいのでしょうか?

    (1)言葉は記号である。
    (2)記号は言葉である。

    ◆ 観測と命題化

    2人の観測者が、異なった観測結果を得ることがあります。伴走している2人の観測者は、1人は相手が右手に見えて、他方は相手が左手にいるように見えます。これは、まったく正反対の見え方です。

    時速200kmで走っている新幹線の速度は、時速100kmで追いかけている観測者は時速100kmという観測結果を出し、時速150kmで追いかけている観測者は時速50kmという観測結果を出します。

    同時に起こっているように見える現象が、他の人から見たら別の時刻に起こっているように見えることがあります。しかし、これは観測をしているときのみです。両者が観測を止めたとき、同時に起きているか同時に起きていないかのどちらかになります。つまり、観測を止めると命題化します。

  • >>No. 11716

    返信をありがとうございました。

    >公理は、証明によって肯定することも否定することもできません。―――つまり 公理の否定は、証明によって否定することも肯定することもできません。この点、全く同じですね。公理も公理の否定もw

    その通りです。公理の否定は偽の命題だから、証明することはできません。

    ◆ 現実 5

    現実とは事「実」が目の前に「現」れた状態です。つまり、現実とは現象の世界のことです。これは観測者が観測した世界であり、実際の世界とは異なります。
    もちろん、観測装置を通して見た世界も、最終的には人間の脳を通して見た世界―――人間が認識した内容―――ですから、現象に過ぎません。

    事実の世界=事象の世界=ありのままの世界
    現実の世界=現象の世界=脳を介して見た世界

    つまり、この時点で事実は多少なりとも修飾されているので、もとの完全な姿をしていません。事実の単なる不完全なコピーに過ぎません。

    現実とは、事実の不完全な写しである。

  • >>No. 11716

    返信をありがとうございました。

    >公理を導き出す証明が存在せず、公理の否定を導き出す証明も存在しません。なぜならば、公理の定義がそうなっているからです。―――つまり 証明が存在しない点では、公理も公理の否定も同じですね。つまり公理の否定もまた、あなたの公理の定義を満たしますね。

    男性も息をしており、女性も息をして生きています。だから、男性と女性は同じでしょうか?公理は真の命題ですが、公理の否定は偽の命題です。

    真の値は実際の値です。それに対して、現実に得られる測定値は真の値の不完全な写しです。
    この世に存在しているすべての観測装置は、真の値ではなく測定値を表示します。その測定値は真の値の不完全なコピーに過ぎません。測定値が真の値が近いこともあれば遠いこともあります。この値の差を誤差と呼んでいます。現実に得られる測定値はすべて誤差を含んでいます。

    人間は「常に真実を直感で得ることができるほどの正確な直感力」を持っていません。したがって、真の値は誰も知りようがありません。しかし、「知りようがないから存在しない」と考えることは間違いです。真の値が存在しないならば、誤差論も捨てざるを得ず、私たちは科学そのものを失います。

    私たちはしっかりと認識しなければなりません。「真の値は存在するが、それを完全に知る手段を私たちは持っていない」ということを…。
    観測や実験をいくら繰り返しても、真実そのものをゲットできるわけではありません。観測結果や実験結果をもとにして、常に推測という不完全な方法を使って、神のみぞ知る真実に迫っていくしかありません。だから、推測の仕方によっては、観測結果の解釈が真実からどんどん遠ざかってしまうこともあります。

  • >>No. 11716

    返信をありがとうございました。

    >公理とは自明の理であり、直感ですぐに真とわかる命題のことです。―――もし、公理の否定が自明の理であり、直感ですぐ真とわかる命題だ、と主張する人が現れたらどうしますか?どうしようもありませんね。

    「どうして人を殺してはいけないんだ?」と主張している少年を完璧に説得することは不可能です。

    ◆ 同じように見える

    次なる文AとBを比較します。

    A:XとYは同じである。
    B:XとYは同じであるように見える。

    AとBは根本的に異なる文です。これより、Aが正しくてもBが正しいとは限りません。逆に、Bが正しくてもAが正しいとは限りません。

    Aは本質を述べていますが、Bは見かけを述べています。たとえば、同時に起こったかどうかは本質的な問題ですが、同時に起こったように見えたかどうかは見かけの問題です。

    この宇宙では、事象Aと事象Bが同時に起きたかどうかは1つの事象です。この事象をCとします。

    事象C:事象Aと事象Bが同時に起こった。

    この事象は無矛盾でなければならないから、真であるか偽であるかのどちらかです。これを命題と呼びます。もし、事象Cが真であれば、それは誰にとっても―――万人にとっても―――真でなければなりません。

    しかし、認識の結果としての現象にはこの概念は必ずしも通用しません。なぜならば、認識は人さまざまであり、現象の解釈もいろいろあるからです。そのため、ある人は事象Cを真の現象ととらえ、別の人は事象Cを偽の現象ととらえることもあります。これは、現象が必ずしも万人に共通の真理値を持つ命題を作れないことに起因しています。

  • >>No. 11716

    返信をありがとうございました。

    >しかし、この自明の理、および、その否定を証明することは不可能です。つまり、公理を真と仮定しても矛盾が証明されず、偽と仮定しても矛盾が証明されません。―――つまり、公理の否定を真としても矛盾が証明されず、偽としても矛盾が証明されないわけだ。まったく同じですね。公理とその否定。

    似ているだけです。公理と偽の命題はとても似ているのです。だから、人類は非ユークリッド幾何学にだまされたのです。

    ◆ 理想的な時計

    私たちは、いまだかつてまったく狂いのない完璧な時計を見たことも触ったこともありません。でも、私たちは「完璧な時計」やそれが表示する「本当の時刻」を確かに知っています。なぜならば、完璧な時計が何なのか知っているからこそ、「あの時計は完璧な時計じゃない」と言えるのです。本当の時刻があるからこそ、「この時計には誤差がある」と言えるのです。
    もしこの宇宙に完璧な時計が実在しないのならば、いったいそれはどこに存在しているのでしょうか?それに対する答えは2つあります。

    答えその1:どこにも存在していない。
    答えその2:私たちの心の中に存在している。

    ニュートンは、答えその2でニュートン力学を作り上げました。しかし、アインシュタインは心の中に存在している絶対時間を形而上学的な無意味な時計(本当に存在しているのかどうかわからないあやふやな時計)として認めませんでした。そして、答えその1を使って、相対性理論を作り上げました。

  • >>No. 11716

    返信をありがとうございました。

    >後者より、公理の否定を仮定しても矛盾が証明されないのであれば、公理の否定を仮定に持っている理論からは矛盾が証明されません。―――前者より、公理を仮定しても矛盾が証明されないのであれば 公理を仮定に持っている理論からは矛盾が証明されません。つまり、ソックリな二つの命題に対して、どっちが公理でどっちがその否定かなんて見分けようが無いし見分ける必要もないってことですよ。

    それは浅知恵でしょう。公理(平行線公理)が証明不可能なのと、偽の命題(平行線公理の否定)が証明不可能なのが似ているだけです。

    ◆ 本当の速度

    物体の速度は見る人によって異なります。しかし、物体の速度は観測とは無関係に存在しており、観測者の速度から独立しています。

    ある一定の速度で走っている車があり、それを別の車に乗った観測者が観測して速度を測ったとします。たとえば、ある観測者が見て時速100kmの車が、別の観測者が見たら時速50kmであったとしましょう。しかし、視点が変わった瞬間に観測すべき車の速度が急に遅くなったわけではありません。車の実際の速度はまったく変化していません。

    観測者1人1人は異なった車の速度を観測するが、観測のたびに車の速度が変化するわけではない。つまり、観測者に依存しない実際の速度(本当の速度)が存在するはずである。

    要するに、観測者は「見かけの速度(現象としての速度)」を観測しているのであり、これとはまた別の「観測には依存していない本当の速度(事象としての実際の速度)」があります。古代ギリシャ哲学はこの存在を認めることから、スタートしました。そして、この本当の速度や本当の重さや本当の時刻(これらを真実という言葉で代表することができます)を追究することが科学の使命となりました。しかし、現代物理学はこの哲学の精神を失っています。

  • >>No. 11811

    返信をありがとうございました。

    >松戸博士は「相対性理論はすべての現象と合致しているから正しい理論である」と断言したいのですね?―――いいや。「相対論及びニュートン力学を、現象と比較した場合 相対論と現象の差のほうが、ニュートン力学と現象の差よりも小さい。つまり、相対論のほうがニュートン力学に比べて、より正しい。」といっている。

    そう断言することはできません。というのは、松戸博士がそういいたいのであれば、その前にまずは「理論値と測定値の近い方が正しい理論である」という命題を証明する必要があります。松戸博士はこの証明を行なわないまま、「相対性理論はニュートン力学よりも正しい」と繰り返しているにすぎません。


    ◆ 同時

    相対性理論は、次なる同時刻の相対性があり得ることを主張しています。

    【同時刻の相対性】
    観測者Aにとって現象Xと現象Yが同時に起きているが、観測者Bにとってはこの2つの現象は同時に起きていない。

    この文章からは「観測者Aにとっては」と「観測者Bにとっては」を省くことはできません。というのは、この言葉を省略すると、次のように矛盾してしまうからです。

    【同時刻の相対性】
    現象Xと現象Yが同時に起きているが、この2つの現象は同時に起きていない。

    観測していないときに事象Xと事象Yが同時に起きたかどうかは、観測者の存在とは無縁にその真偽が決定しています。しかし、現象にとっては観測者の存在が必要です。

    同時の事象は、人類が地球上に誕生するずっと前から起きています。天体Aと天体Bが衝突したとき、「天体Aが天体Bにぶつかった」という事象と「天体Bが天体Aにぶつかった」という事象は同時に起きています。つまり、同時という事象は、観測者はまったく依存していません。

    2つの事象が同時に起きていれば、誰にとっても同時です。しかし、この事象の同時性は現象には通用しません。ある人が見て同時であっても、他の人が見たら同時ではないという現象はたくさんあるからです。

    「同時であるかどうか(事象の立場から見た同時性)」という問題と「同時であるように見えるかどうか(現象の立場から見た同時性)」という問題は、まったく別の問題です。同時であるかどうかは事象の問題ですが、同時であるように見えるかどうかは現象の問題です。

    ところが「人間はいつも真実を観測できている(事象と現象は同じである)」という考え方を持つと、「同時であるかどうか」と「同時であるように見えるかどうか」は同じ問題になります。

  • >>No. 11811

    返信をありがとうございました。

    >「相対性理論は、現象と合致しない点は1個もない」と断言したいのですね?―――いいや。合致といってるが、実際には相違の度合いだ。

    ということは、相対性理論は現実と相違しているのですね?では、相対性理論はどのような点で現実と相違しているのでしょうか?


    「織田信長が明智光秀に殺された」という事象と「明智光秀が織田信長を殺した」という事象は、どんな座標系でも同時に起こっています。

    観測していないときに事象Xと事象Yが同時に起きたかどうかは、観測者の存在とは無縁にその真偽が決定しています。

    事象と現象は異なります。事象が同時であっても、現象が同時ではないことがあります。相対性理論は事象を扱わずに、現象のみを扱っています。このような狭い考え方が、「2つの現象が同時に起きたかどうかは、観測者によって異なる」という結論を導き出しています。
    確かにこれは事実でしょう。でも、その理由は相対性理論が正しいからではありません。事象と現象が異なっているからです。

  • >>No. 11811

    返信をありがとうございました。

    >それならば、素粒子論は必要ないではありませんか。超ひも理論は必要ないではありませんか。―――素粒子論も超ひも理論も、相対論を否定する理論ではないが。知らんのか?w

    私の主張の趣旨をまだご理解していないようですね。松戸博士は以前「相対性理論で説明できない現象は存在しない(相対性理論が成り立たないというのであれば、相対性理論を否定したその現象を具体的に示せ)」と言いました。これはまさに、すべての現象は相対性理論で説明できるはずである、という考え方でしょう。だったら、素粒子論や超ひも理論は必要ないでしょうと、私は申し上げたのです。

    確かに、私は相対性理論と相違する現象を具体的に明示することはできません。でも、この宇宙がすべて相対性理論一色で塗りつぶされるとは思っていません。それぞれの多数の無矛盾な物理理論がおのおのの適用範囲を守りながら、相補的に自然現象を説明できることがあると思っています。これはとりもなおさず、相対性理論が現象とすべて合致することがない(相対性理論で説明できな自然現象が存在する)ということに他なりません。

    ◆ 物理学の論理構造

    Aという物理理論を考えます。次に、理論AからBという自然現象が観測されるはずであると予測します。それを検証するために、実際に観測や実験をして確認してみます。確認されたら理論Aが正しいと結論づけます。これを論理式で書くと、次のようになります。これが検証の論理構造です。

    ((A→B)∧B)→A

    この検証という論理構造は、トートロジーではありません。それは次のような真理値表でわかります。

    A B A→B ((A→B)∧B)→A
    1 1  1        1
    1 0  0        1
    0 1  1        0
    0 0  1        1

    3行目の一番右の真理値が0になっています。これは『物理理論Aから自然現象Bが説明でき、しかも、その現象が実際に確認されても、それでも理論Aが間違っている』という意味を持っています。これより、物理理論がどんなにたくさんの自然現象を説明できても、その物理理論が正しいと結論づけられません。
    しかし、ある物理理論からたくさんの自然現象を説明できるということは、その理論に実用性があることを意味しています。実用的である以上は、実生活にその理論を使用し続けてもかまいません。ただし、絶対的な条件が1つだけあります。それは「その物理理論が無矛盾であるならば」という条件です。

  • 2012/11/23 06:22

    >>No. 11810

    返信をありがとうございました。

    >物理屋ならば、正々堂々と「正しさ」を売ってください。―――ワタシはつねにそうしている。

    その心構えを生涯忘れないようにしていただきたいと思います。

    >卑怯なのは「現象が正しいとは限らない。間違ってる現象もある。」と直観に反する現象から逃げて逃げて逃げまくるばっかりの弱虫チキンの君だよ。

    では、どうして現象は正しいのでしょうか?松戸博士はいまだに「現象は正しい」という主張の根拠を示していません。もうそろそろ、その根拠を明らかにしてもらえないでしょうか?

    ◆ 適用範囲

    現象を予測する数式に極端な条件を代入すると、現象と乖離する数値を算出してきます。だから、理論が現象を予測あるいは説明できるかどうかは、条件次第とも言えます。この条件が適用範囲です。
    物理理論には適用範囲があります。適用範囲とは、その物理理論が使える自然界の範囲のことです。これより、適用範囲を超えた領域で物理理論を使用すると成り立ちません。これは、適用範囲を超えた領域で理論を使おうとすると、どんな物理理論も自然界を説明できなくなるということです。このとき、その理論は観測や実験によって反証さます。

    適用範囲内:理論が検証される範囲
    適用範囲外:理論が反証される範囲

    適用範囲外では、どの理論もその理論値は観測結果や実験結果と相違します。しかし、正しい理論が適用範囲を超えたとたんに手のひらを返した様に間違った理論に変化するわけではありません。その場合、反証によって否定されるのは「理論を適用範囲外で使ったこと」です。その理論そのものが反証で否定されるわけではありません。
    実は、適用範囲が存在することは、すべての無矛盾な物理理論が持っている宿命です。しかし、矛盾している理論には、この適用範囲の概念が通用しません。なぜならば、矛盾している物理理論はどんな自然現象も説明できる潜在的な能力を持っているからです。

  • >>No. 11809

    返信をありがとうございました。

    >ニュートン力学は現象と合致する点もあります。なぜ、この重要な事実を無視するのでしょうか?―――ニュートン力学は光よりはるかに遅い運動に関しては現象との相違が小さすぎて目に見えない。しかし、速度が早まればもはや現象との相違はごまかしようがなくなる。ヒデは「速度が早まると、測定が誤る」といってるが直観が事実だという証拠もないのだから、全く無意味。

    それはニュートン力学の適用範囲で乗り越えられます。ニュートン力学は万能の物理理論ではありません。松戸博士は「ニュートン力学には適用範囲が存在している。だから、ニュートン力学は間違っている」と言っているのです。それに対して相対性理論では適用範囲が広いから正しいと言っています。しかし、その根拠をまだ示していません。なぜ、適用範囲の広い理論が正しくて、適用範囲の狭い理論が間違っているのでしょうか?

    そろそろ、松戸博士の主張の1つである「適用範囲の広い理論は正しい。適用範囲の狭い理論は間違っている」の根拠を明示してもらえないでしょうか?

    ◆ 適用範囲 2

    ある時期、ニュートン力学で物理学は完成し、これで物理学の発展は終焉したと思われた時代がありました。しかし、実際にはニュートン力学は万能ではありません。ニュートン力学が成り立たない現象がその後になってたくさん見つかったのです。
    ニュートン力学が成り立たない現象が見つかったことは、ニュートン力学の限界を知ったことです。しかし、これは適用範囲という概念で乗り超えられます。どんな無矛盾な物理理論も、それぞれが必ず適用範囲(その物理理論が成り立たない自然界の領域)を持っています。
    適用範囲を超えたところで理論を使うと、どんな物理理論も観測結果や実験結果に反します。したがって、適用範囲を超えた領域に物理理論を使用して「観測や実験の結果からこの理論は間違っている」と物理理論そのものを否定することは間違いです。
     これは、検証と反証の限界を意味しています。何度検証されても正しい理論と結論できません。これによって「すべての理論は、反証されるまでの仮の理論である(すべての理論は仮説である)」という主張も成り立たなくなります。
    無矛盾な物理理論は世界を2つに分類できます。その物理理論で説明がつく世界(適用範囲)と、説明がつかない世界(適用範囲外)です。
    しかし、これは矛盾している物理理論には適用されません。矛盾している物理理論は、潜在的にはどんな自然現象も説明できる能力を持っているからです。
    したがって、もし人類が森羅万象を説明できる究極の理論を作り上げることができたならば、きっと、それは矛盾した物理理論になることでしょう。

  • >>No. 11809

    返信をありがとうございました。

    >相対性理論はすべての現象と合致するとお考えでしょうか?―――特殊相対論は重力に関する現象とは相違する。

    では、特殊相対性理論は間違っているのでしょうか?

    >一般相対論は量子的な現象に関しては相違すると思われている。

    では、一般相対性理論は間違っているのでしょうか?

    >つまりどの理論も物理的に正しいとはいえない。しかし、正しさ(つまり間違いの無さ)の度合いは ニュートン力学 < 特殊相対論 < 一般相対論 であるということだ。

    では、松戸博士はなぜ「ニュートン力学は間違っていると断言したのでしょうか?上記の列からはニュートン力学が否定されることはありません。ニュートン力学を否定するのであれば、その右隣の特殊相対性理論も否定すべきでしょう?

    >(ちなみに、全ての物理理論に対して、上記のような単純な序列がつけられるとは限らない。例えば素粒子論は重力を含んでいないから、一般相対論との比較はできない。)

    つまり、この序列外に存在するというのですね?では、特殊相対性理論は重力を含んでいないのに、どうしてこの序列内に鎮座しているのでしょうか?

    定義はとても大切です。たとえば、「無限とは、終わりのないことである」というのは定義です。正しい定義は否定できません。
    これより、直ちに「終わりのある無限(=限りのある無限=完結する無限=実無限)は無限ではない」という結論が得られます。
    同じように、「適用範囲とは、物理理論が自然現象を説明できる範囲である」と定義すると、適用範囲外で理論を使用して「その理論は間違いである」という結論を下すことが間違いであることを理解できます。これによって、「反証された物理理論は間違いである」という考え方が成り立たないこともわかります。

  • >>No. 11808

    返信をありがとうございました。

    >「数学的には正しいが、物理学的には間違っている」と「数学的には間違っているが、物理学的には正しい」の2つに関して、詳しい考察をしてくれませんか?―――「数学的には間違っているが、物理学的には正しい」ということはない。物理学的に正しい、というための前提の一つは数学的に正しい、である。数学的に正しい、とは、矛盾が導けない、ということ。

    それは間違いです。正しければ矛盾が導き出されません。しかし、この逆は成り立ちません。矛盾が導き出されないから正しいとは言えません。必ずしも逆が成り立たないのは論理学の鉄則です。

    今、物理学者たちはなぜ、超ひも理論を作ろうとしているのでしょうか?
    それは、この世界には相対性理論が使用できない領域(相対性理論が成り立たない自然界の領域=相対性理論の適用範囲外)が存在しているからです。相対性理論で説明できない領域を、超ひも理論で説明しようとしているのです。
    もし「理論が適用できない自然界の範囲がある=適用範囲外が存在する」を「理論が間違っている」と解釈すれば、超ひも理論を考案している物理学者たちは全員が「相対性理論は間違っている」と考えていることになります。

  • >>No. 11808

    返信をありがとうございました。

    >その上で、現象と相反しない、というのが、物理学的に正しい、ということ。

    その現象が正しいという保証はありません。

    ◆ 適用範囲の線引き問題

    大人と子供は明らかに違います。3歳の子供と90歳の老人は異なります。3歳はまだ子供であり、90歳は子供ではありません。しかし、その差を次第に縮めて行くとどうでしょう?13歳は子供です。23歳は大人です。このような操作によって、子供と大人の明確な線引きをすることができますか?不可能です。どんなことでも、境界線近くは命題化が不可能になります。
    でも、「20歳以上は大人である」というような具体的な数値で定義をすれば、命題化されます。しかし、その数値をどうやって決定するかの明確な証明もありません。

    適用範囲と適用範囲外もまた線引き問題が存在し、両者を明確に区別できる境界線は存在しません。
    検証とは、用いた数式の条件が適用範囲内に存在し、反証とは適用範囲外に存在することです。どの理論も適用範囲内と適用範囲外を明確に分けることはできないならば、どの理論も検証と反証の境界がはっきりしないことになります。検証されたのか、反証されたのか、はっきりしない…ということは、検証と反証の間にも線引き問題が存在しているということです。

  • >>No. 11808

    返信をありがとうございました。

    >ヒデは、直観と相反しないことを、物理学的に正しい、といいたいようだが、直観は物理現象ではないから、物理学の研究対象ではない。

    正しい直感をどう命名するかで悩みましたが、「良識的な直感」が一番良いと思いました。良識的な直感は何もすべての現象に合致する必要はありません。観測装置がとらえる「真とも偽とも判断しかねる現象」を判断する際の参考とします。

    ◆ 線引き問題

    科学理論とトンデモ理論(科学理論という仮面をかぶったいかがわしい理論)を区別するためには、どのような基準があるか?この問題を線引き問題と言います。平たく言うと「本当の科学理論と嘘の科学理論(トンデモ理論)の間に明確な線を引こう」という試みです。
    歴史的に、科学とトンデモの間に引くべきさまざまな線引きの基準が提出されてきました。ポパーの反証可能性の概念もそのような経緯から出されました。結局、いままで提案されたすべての線引きの基準は、そのどれもがうまく行っていません。

    つまり、科学理論とトンデモ理論の境界線が今日でもあいまいです。このあいまいさゆえに、多くの人は科学理論をトンデモ理論と思い込んでいたり、逆に、トンデモ理論を科学理論と勘違いしていたります。
    おそらく、科学理論とトンデモ理論をはっきりと区別できる基準の設定は永遠に不可能でしょう。科学は常に、トンデモとの戦いです。
    そして、今日における最も巨大なトンデモ理論は、数学では公理的集合論と非ユークリッド幾何学であり、物理学では相対性理論とビッグバン理論です。

  • >>No. 13733

    返信をありがとうございました。

    >ひゃまは、相対論のボタンの掛け間違い直す論文書いてるから忙しいの

    申し訳ありません。名前からして、ヒマなのかと思いまして…m(__)m

    ◆ 適用範囲 2

    ある時期、ニュートン力学で物理学は完成し、これで物理学の発展は終焉したと思われた時代がありました。しかし、実際にはニュートン力学は万能ではありません。ニュートン力学が成り立たない現象がその後になってたくさん見つかったのです。
    ニュートン力学が成り立たない現象が見つかったことは、ニュートン力学の限界を知ったことです。しかし、これは適用範囲という概念で乗り超えられます。どんな無矛盾な物理理論も、それぞれが必ず適用範囲(その物理理論が成り立たない自然界の領域)を持っています。
    適用範囲を超えたところで理論を使うと、どんな物理理論も観測結果や実験結果に反します。したがって、適用範囲を超えた領域に物理理論を使用して「観測や実験の結果からこの理論は間違っている」と物理理論そのものを否定することは間違いです。
     これは、反証の限界を意味しています。何度反証されても、間違っている理論と結論できないからです。

  • >>No. 11807

    返信をありがとうございました。

    >早く、物理学基礎論ができるといいですね。―――科学基礎論は既にあるが。君は、実証を否定した時点で科学を否定してるから意味がない。

    実証とは何でしょうか?

    無矛盾な物理理論は世界を2つに分類できます。その物理理論で説明がつく世界(適用範囲)と、説明がつかない世界(適用範囲外)です。
    しかし、これは矛盾している物理理論には適用されません。矛盾している物理理論は、潜在的にはどんな自然現象も説明できる能力を持っているからです。
    したがって、もし人類が森羅万象を説明できる究極の理論を作り上げることができたならば、きっと、それは矛盾した物理理論になることでしょう。

  • No.13736

    Re: 妄想

    2012/11/24 02:53

    >>No. 11806

    >私は物理学科の出身だ?数学科?俗人の私は仙人の世界には通じてない。―――松戸博士は謎の人物ですね。数学科出身なのでしょうか?―――いいや。ある気のふれた男がワタシを別のある男だと思い込む妄想にとりつかれているらしい。

    松戸博士の名字は松戸さんでしょうか?それとも、松戸に住んでいらっしゃるのでしょうか?ちなみに、私は南千住まで5年間、通いました。

    定義はとても大切です。たとえば、「無限とは、終わりのないことである」というのは定義です。正しい定義は否定できません。
    これより、直ちに「終わりのある無限(=限りのある無限=完結する無限=実無限)は無限ではない」という結論が得られます。
    同じように、「適用範囲とは、物理理論が自然現象を説明できる範囲である」と定義すると、適用範囲外で理論を使用して「その理論は間違いである」という結論を下すことが間違いであることを理解できます。これによって、「反証された物理理論は間違いである」という考え方が成り立たないこともわかります。

  • >>No. 11846

    返信をありがとうございました。

    >本当は、物理理論は事象と合致していることが求められています。現象ではありません。―――それはヒデ一人が勝手にいっていること。プラトンの言葉とは無関係。

    私はプラトンの弟子です。そして、彼のイデア論をヒデア論に塗り替えました。ヒデア論はイデア論の改訂版です。

    今、物理学者たちはなぜ、超ひも理論を作ろうとしているのでしょうか?
    それは、この世界には相対性理論が使用できない領域(相対性理論が成り立たない自然界の領域=相対性理論の適用範囲外)が存在しているからです。相対性理論で説明できない領域を、超ひも理論で説明しようとしているのです。
    もし「理論が適用できない自然界の範囲がある=適用範囲外が存在する」を「理論が間違っている」と解釈すれば、超ひも理論を考案している物理学者たちは全員が「相対性理論は間違っている」と考えていることになります。

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