-
No.30704
はじめまして 今までROM専…
2018/12/16 08:11
はじめまして
今までROM専で楽しませてもらいました。テキストリーム終了とのこと残念ですね!皆様の夢が叶いますよう影ながら応援しております。 -
No.221372
循海岸水行、歷韓國乍南乍東、到…
2016/08/27 17:44
>>No. 219939
循海岸水行、歷韓國乍南乍東、到其北岸狗邪韓國
循海岸水行到其北岸狗邪韓國」
水行の目的は、到其北岸狗邪韓國
これでも文として成り立つが、
これだけでは、情報が足りないので、
歷韓國、乍南乍東が、補語として挿入されている。特に乍南乍東は、方向補語として機能させているので、ジグザクには読まない。南に進んで~東にである。 -
No.221371
携帯からなので、短くなります。…
2016/08/27 17:05
>>No. 221349
携帯からなので、短くなります。
> 「郊勞のあと」じゃなく、その「ひと月半」が「郊勞」じゃ。
> (君は「郊勞」の意味を知らないか?)
> 長旅の慰労に、特に決まった期限はない。
> 「放っておいたのか」とも君は言うが、
> ちゃんと接待担当者が派遣されている。
> (接待と言えば、風呂、酒(飲食)、美女?であろうか。
郊勞は日本の国語辞典や漢和辞典に収録されているが、異を唱えるのなら版元に連絡して書き変えてもらって下さい。 -
No.3917
> 以前の議論の時に、met…
2016/06/02 19:46
>>No. 3883
> 以前の議論の時に、metさんが大和説だったのか?九州説であったのか?がはっきりしていなかったような気がしていたんですが、
> 今は、どちらなんでしょうか?。
何が、大和説で、何が九州説なのか意味不明です。
二元的な、色分けに意味があるのですか?
古田氏の、論考で唯一理解できるのは道票読みだけです。
倭人伝の女王が都する所はどこかというなら、九州説です。
ただし、博多界隈ではありません。
継体、欽明の時代ならともかく推古の時代の九州王朝は、ファンタジー
でしかありません。 -
No.3916
> あのう、「ついでに」、この…
2016/06/02 19:23
>>No. 3888
> あのう、「ついでに」、この白文のページにmetabonohigesanの熊さんの「ついでに」文を収録させて頂いても宜しいでしょうか?
>
> 許可を戴き次第、作業に取りかかりたいと思いますので、よしなに、、、m(_ _)m
どうぞ自由にしてください。おかしなところがあれば、適当に直してください。 -
No.3915
> やですよ~、シロートの与太…
2016/06/02 19:18
>>No. 3886
> やですよ~、シロートの与太話にプロがくちばしつっこんじゃぁ、、、(~_~;)
皮肉が、きつすぎます。私は、ど素人でハイエナさんから学ぶこと大です。
> metabonohigesanさんのご指摘は当を得たものだとも思いますので、さっそくご意見は私のホームページに繁栄させて頂きます。暫くお時間を下さい。
>私も当初は、metabonohigesanのご指摘通り、≪「海ニ循(したが)ヒ、岸ヲ北スルニ、交阯于(に)達ス」≫と読んでみたのだが、ベトナム沿岸を北上するのに、トンキン湾に近い部分のみ適合すると思える「海の北岸」という表現に若干の違和感を感じたので、「海ニ循(したが)ヒ、岸ヲ北スルニ、交阯于(に)達ス」と変えた。ただ、私の「海ニ循(したが)ヒ」という読みでは、意味が曖昧になるかとも思うので、metabonohigesanの解釈を是とする意味を込めて引用させて頂くことにした。、
≪「海ニ循(したが)ヒ、岸ヲ北スルニ、交阯于(に)達ス」≫この部分違ってませんか。
補足 海の北側に位置する岸の形状は関係ないのです。形状が多様であるからこそ、循(したが)うのです。
俯瞰できる現代の地図で考えると混乱しますよ。人の目で見える景色で考えるのです。 -
No.3880
ついでに > それともな…
2016/06/01 19:55
>>No. 3849
ついでに
> それともなんだい、先日私が示した白文でも読んでみるかい?キミの「文法」力で・・・www
とりあえず固有名詞を括弧で括って、ハードルを下げておこう。
稽古帝王治天下之大經大法以及累朝名物制度因革損益之詳 紛綸浩博散見典籍未有統貫
(唐宰相=杜佑)於為(淮南節度)書記時 始出己意搜討類次勒成一書名曰(通典)
為類八為書二百卷 自唐(肅)(代)閒上溯(唐虞)
雖亦稍據(劉秩)(政典)及(開元新禮)諸書要其網羅百代兼總 而條貫之斯已勤矣 厥後(鄭樵)廣之作(通志)(馬端臨)續之作(通考)三書並行於世 朕以其歴年久遠頗有殘缺 特命重為校正刊刻 以廣其傳(通典)實先告竣 朕惟三書各有意義 (鄭樵)主於考訂故旁及細微 (馬端臨)意在精詳故閒出論斷 此書則佑自言徴於人事 將施有政故簡而有要核而不文觀 其分門起例由 (食貨)以訖(邊防) 先養而後教先(禮)而後(刑)設(官)以治民安内以馭外 本末次第具有條理亦恢恢乎 經國之良模矣 書曰學於古訓乃有獲為國家者 立綱陳紀斟酌 古今將期與治同道 而不泥其迹則是書實考鏡所必資 豈以供博覽 而已哉爰掲之 以告讀是書者
乾隆丁卯冬十二月
ついでにさわりだけ
※稽古 古を鑑みれば
因革(たるみによる) 損益(加えたり、減らしたりすること)
古を鑑みれば帝王、天下を治るの、大經大法 累朝に及びて、名物制度の因革損益之詳
紛綸浩博し典籍に散見せるも未だ統貫を有せず
宰相 一般名称 杜佑の最終官職 同平章事は宰相のこと
※於為(淮南節度)書記時 淮南節度の書記と為りし時より この於は ~より
※(肅)10代粛宗(代)11代代宗 閒 上溯(唐虞)陶唐氏(尭 )と有虞氏(舜
通典構成
• 食貨 12巻
• 選挙 6巻
• 職官 22巻
• 礼 100巻
• 楽 7巻
• 兵 15巻
• 刑 8巻
• 州郡 14巻
• 辺防 16巻 -
No.3879
久しぶりです。 少し気になっ…
2016/06/01 19:43
>>No. 3824
久しぶりです。
少し気になったので
> 大業三年十月、常駿等は海路より赤土國へ向かい、その六年帰還している。その帰路中の次の文だ。
>
> 【循海北岸,達于交阯】
>
> 読み下せば、「海ニ循(したが)ヒ、岸ヲ北スルニ、交阯于(に)達ス」で良いだろう。常駿等はベトナム沖を北上し、交阯(今のハノイ付近)に達したという。もちろん、これは実際に常駿らの帰還路中の経路に他ならない。
「海ニ循(したが)ヒ、岸ヲ北スルニ、交阯于(に)達ス」 これでは、陸路波打ち際を進むことになる。
循海北岸,達于交阯 海の北岸に循(したがい)交阯于(に)達ス これで意味が通じます。
海北岸とするのは、岸が、湖や川の岸ではなく海の岸であることを示しているだけです。 -
No.211274
> いろいろ書いておられますが…
2015/12/29 19:34
>>No. 211272
> いろいろ書いておられますが、
> それでmet氏は、「二里余」が、長里説であるのか?短里説であるのか?の、どちらなんですか?。
説というのがよく解らないが、書物に書かれている里が当時の官制の里以外を記すことは、考えられません。
2里余は、900メートル前後です。
ただし、未確認情報ですが、職人さんの使う度量衡は、官制の度量衡に束縛されず別系統だという話は聞いたことがあります。それでも、極端な短里など存在しません。 -
No.211248
火計を成立させるには、上流から…
2015/12/28 19:59
>>No. 210261
火計を成立させるには、上流から東南の風(向かい風)と,河の流れと岸に向かう波とを利用しないと、うまくいきません。下流から東南の風(追い風)を利由して、上流にある敵の船溜まりに向けても、川の流れに逆らえばスピードは上がりません。川を横断するには、ほぼ真後ろからの風を受けることになります。この場合火勢の上がった炎や火の粉が帆を直撃することになります。が、上流からなら、船の方向と帆の角度を調整すればやや後方からの横風になるので、帆が進行方向にはらめば、多少の追い風の力と揚力が働き、船の速度は上がります。風は横風なので、炎や火の粉が帆を直撃することのリスクは、軽減できます。
火計に使用する10艘の船に、同時に火をつけ、親船から切り離さなければなりません。
枯草に油を染み込ませていれば、火勢は、一気に上がります。
タイミングを誤ると失敗します。秒を争う作戦です。10艘の船の乗組員は、素早く船から離脱しなければならないのです。降という叫びは、10艘の船の乗組員に対してであり、船から離脱しろということです。敵陣に向かって降伏すると叫んだのではありません。
多勢で叫んだのは、最後尾の船まで聞こえるようにです。 -
No.210197
>『江表傳』では北軍から二里餘…
2015/12/13 17:53
>『江表傳』では北軍から二里餘であって、北岸からではないですよね。
つまり、長江中流域から河を真横に横切って北岸に向かったのではなく、
北軍の船団が停泊している上流へ向かって帆を挙げて進んだのだと思いますよ。
上流に向かったのでは、うまくいきません。
敵の船溜まりから、さらに上流から川の流れと風を利用して目標に漂流させないとうまくいかないと思います。
時速10キロの船足なら、目標までの2里は、5分程度で到達します。火をつけて火勢がが上がる時間を考えると
絶妙のタイミングが計れます。目標は目視できますので、方向さえコントロールすれば、十分に狙える距離です。
乗組員は、戦時中の特攻とは違うので、船から離脱します。
使眾兵齊聲大叫曰:「降焉!」
これは、飛び降りろ とか飛び込めの意味かと思いますが。 -
No.210058
久しぶりです。 投稿に使って…
2015/12/11 19:39
久しぶりです。
投稿に使っていた、PCがバチンと音を立てて、壊れてしまったので投稿できなくなっていました。
ザラコクさんへの宿題なので、余計なお世話なのですが、とりあえず固有名詞を括弧で括って、ハードルを下げておこう。
稽古帝王治天下之大經大法以及累朝名物制度因革損益之詳 紛綸浩博散見典籍未有統貫
(唐宰相=杜佑)於為(淮南節度)書記時 始出己意搜討類次勒成一書名曰(通典)
為類八為書二百卷 自唐(肅)(代)閒上溯(唐虞)
雖亦稍據(劉秩)(政典)及(開元新禮)諸書要其網羅百代兼總 而條貫之斯已勤矣 厥後(鄭樵)廣之作(通志)(馬端臨)續之作(通考)三書並行於世 朕以其歴年久遠頗有殘缺 特命重為校正刊刻以廣其傳(通典)實先告竣 朕惟三書各有意義 (鄭樵)主於考訂故旁及細微 (馬端臨)意在精詳故閒出論斷 此書則佑自言徴於人事 將施有政故簡而有要核而不文觀 其分門起例由(食貨)以訖(邊防)先養而後教先(禮)而後(刑)設(官)以治民安内以馭外本末次第具有條理亦恢恢乎 經國之良模矣 書曰學於古訓乃有獲為國家者 立綱陳紀斟酌 古今將期與治同道而不泥其迹則是書實考鏡所必資 豈以供博覽而已哉爰掲之以告讀是書者
乾隆丁卯冬十二月
ついでにさわりだけ
※稽古 古を鑑みれば
因革(たるみによる) 損益(加えたり、減らしたりすること)
古を鑑みれば帝王、天下を治るの、大經大法 累朝に及びて、名物制度因革損益之詳
紛綸浩博し典籍に散見せるも未だ統貫を有せず
※於為(淮南節度)書記時 淮南節度の書記と為りし時より この於は ~より
※(肅)10代粛宗(代)11代代宗 閒 上溯(唐虞)陶唐氏(尭 )と有虞氏(舜
通典構成
• 食貨 12巻
• 選挙 6巻
• 職官 22巻
• 礼 100巻
• 楽 7巻
• 兵 15巻
• 刑 8巻
• 州郡 14巻
• 辺防 16巻 -
No.41234
Re: 日本の大(太)宰府
2014/08/05 18:47
>>No. 41231
横から失礼。
>自治体でも同じく、混用している。<
昭和30年代後半以降、表記については決まりごとがあり混用はしていません。
http://www.city.dazaifu.lg.jp/bunka_t/faq/faq-154-2-1.html -
No.195280
Re: 「是日」
2014/07/27 18:17
>>No. 195155
>「隋書」ではこの「郊労」の期間を書いていません。
これを補うのが「日本書記」の記述で、
難波の新館での長旅の慰労に、約1ヶ月以上費やしたことがわかります。<
「郊労」の期間、て何?
功労は、出迎えることです。 難波の新館での長旅の慰労は、関係ありません。
時期的に、夏の盛りです。暑さを避けたのかも、相見は、涼しくなってからです。
↓
http://dictionary.goo.ne.jp/srch/jn/%E9%83%8A%E5%8A%B4/m0u/
海石榴市、椿市
この市は、政治の中心が主として奈良盆地の東南部にあった頃、定期的に市が立って栄えた。北へたどる山辺の道の起点であり、そこに初瀬街道がT字形に合し、さらに飛鳥からの山田の道、磐余の道などの主要な街道が集まり[4]、また初瀬川を下り大和川に出る水運の河港もでき、水陸交通などの要衝の土地であった。その場所は三輪山の南、今の桜井市金屋付近である。
推古紀16年(608年)8月の条に「唐の客を海石榴市の衢に迎ふ」とあり、隋の使者は、初瀬川を船で遡り海石榴市で船を降り、市(衢)そこで出迎えられ、飛鳥の小墾田宮に入京したのであろう。路傍に「海石榴市観音道」の石の道標があり、少し離れたところに「海石榴市観音堂」がある。
海石榴市の 八十(やそ)の衢(ちまた)に 立ちならし 結びし紐を 解かまく惜しも[4]
—作者未詳, 『万葉集』巻12・2951
↓
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E8%BE%BA%E3%81%AE%E9%81%93 -
No.195054
Re: 「郊勞」
2014/07/18 19:25
>>No. 194962
>それは「隋書」や「日本書記」の記述と関係ないですね。<
「日本書記」にせっかく海柘榴市と固有名詞で書かれているのです。海柘榴市がどういう場所であるかは、「日本書記」を読む上で、関係が有ると思います。
>「隋書」では、「郊労」で上陸したことを示し、<
二百余騎を持っての「郊労」なので、既に陸上にいることは言えるが、道行文の記載だけでは、ここで上陸したことを示したとは、言えません。
>「日本書記」では、「安置新館(難波)」でします。<
なぜ、上陸を示すことに拘るのか、海からか、陸からかの論争の後遺症で
ロジックの迷路から抜け出せないのではと思う。
文中に、「最初の上陸地点が書かれていなければならない」という前提自体に
根拠がないのだが。 -
No.195053
Re: 召
2014/07/18 19:19
>>No. 194963
>そもそも隋朝の勅使は、「従妹子臣、至於筑紫」と、
小野妹子が連れて来たものであり、
天皇の勅許が下りれば、彼が連れて来れば良いと思いますよ。<
召大唐使人裴世淸・下客十二人、從妹子臣至於筑紫。遣難波吉士雄成、召大唐客裴世淸等。
その前にも「召大唐使人裴世淸・下客十二人」とありますが、筑紫に至るまでは妹子臣に従っています。招待しておいてその後に勅許もないと思いますが。
仮に妹子が国書を取られたことを上申したのが、筑紫でのことなら、妹子は拘束されて
別行動の可能性もあります。 -
No.195052
Re: 「後十日」
2014/07/18 19:13
>>No. 194852
>「日本書記」では、「入京」と証言しています。<
秋八月辛丑朔癸卯、(ad608年9月17日)唐客入京。是日、遣飾騎七十五匹而迎唐客於海石榴市術。額田部連比羅夫、以告禮辭焉。
秋八月辛丑朔癸卯、(ad608年9月17日)唐客入京。と書いた後で、「是日」のこととし、遣飾騎七十五匹を遣わし海石榴市の術(いくつかの道が集まり交差し、人もまた集まり賑わう所)まで迎えに行き額田部連比羅夫が、礼辞を告げたとあります。
唐客入京前のことを書いています。
一方道行文では、
後十日又遣大禮哥多?従二百余騎郊勞 既至彼都
大禮哥多?従二百余騎による郊勞が有った後、彼都に至ったとしています。
どちらも。大唐使人裴世淸・下客十二人を郊勞したのは、京(都)に入る前です。
ちなみに、書紀は、飾騎の数だけ、道行文では騎の総数と考えれば、数が合わないというのは当たらない。 -
No.194956
Re: 循海岸→於海岸・・・?
2014/07/14 19:13
>>No. 194950
>外国語を現代日本語で、とらえてはだめですよ。<
漢語辞典に記載されているのは、あくまで海の岸という地形の表現。
その通りに、使用するのが古人
浜や磯など、人の視野に収まる場所を、海岸と表現し混同するのが、現代人 -
No.194955
Re: 召
2014/07/14 19:03
>>No. 194947
>「召大唐客裴世淸等」は天皇の言葉であり、<
大唐客裴世淸等を、呼んで来なさいとの命令ですよ
>入京を許す天皇の意向を伝える重要な任務と思いますよ。<
「召大唐客裴世淸等」は、そのような任務ではありません。
お言葉は伝えましたが、後は知りませんではお役目は、全うできないでしょう。
無事に京まで連れてきてお役目が完了です。

ご存命でしたか!なによりです。
2018/12/26 08:50
ご存命でしたか!なによりです。