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No.4093
五色を一色と釈せり
2013/08/19 04:17
>>No. 4086
「此の一色とは五色の中には何れの色ぞや、青・黄・赤・白・黒の五色を一色と釈せり・一とは法性なり、爰を以て妙楽は色香中道と釈せり、天台大師も無非中道といへり、一色一香の一は二三相対の一には非ざるなり、中道法性をさして一と云うなり、所詮・十界・三千・依正等をそなへずと云う事なし」 草木成仏口決
「五色」と言うのは、全ての色と言う意味もあります。 虹も七色ではなく昔は五色だとみなされていました。
それから、五色は、五大や五智に配当されます。 「青・黄・赤・白・黒の五色を一色と釈せり」「一色一香の一は二三相対の一には非ざるなり、中道法性をさして一と云うなり」に注目してください。
五大の空大も五智・五眼の法界体性智・仏眼(九識)も妙法蓮華経の五字で言えば、妙の字です。仏界を意味しますが、「一色とは五色の中でどの色か?」と言う内容の問いに、「五色で一色」と言う答えです。 これは、十法界の中で仏はどの世界か? と聞いたら、「十界全部で一つの仏」と言う答えが帰って来たのと同じです。 -
No.11
Re: 「本門の教主釈尊を本尊とすべし」
2013/08/19 04:41
>>No. 10
>>本門の教主・久遠実成の釈尊は、ただ単なる無始無終の仏というだけではなく、三身相即の常住の仏であるということです。
そうですね。 しかし、無始無終と言うと、時間に要約していることになるでしょうが、因位がスタートで、果位がゴール、まあこれは逆にもなって続く無限のサイクルといえますね。 菩薩⇔如来と言う相互関係、つまり九界と仏界の互具にもいなります。 もっとも、この場合は、因位と果位に要約しているのだから、因果不二と言わねばならないでしょうね。
同じ事を仏身に要約すれば、一身即三身・三身即一身と言う事になります。
要するに同じ事を何に要約するかで、いくつもいくつも法門が開かれていると言うことだと思います。これらの全ては、元初(元品)の法性と元初(元品)の無明の互具に起因しますね。 因果・迷悟が不二であるという事が全ての基本となっているはずです。
ですから、本門の教主釈尊は、この法性と無明の両者がお互いにお互いを内包して存在する妙法そのものの姿であると私は考えます。 -
No.4140
Re: 中道
2013/08/19 11:36
>>No. 4097
>>仏界に色も形もないと、はっきりきめつけるのはどうかな 、
>>非有非無 非善非悪 非因非果
>>有でもなければ無でもない。 否定も肯定もしない中観が基本ですよね。
だからこそ、九界(別して菩薩界)が登場するんですよ! 仏界は妙覚、妙覚は無明を断じ尽くした位、だから色も形もありません。 菩薩界は等覚、等覚は元品(元初)の無明以外の無明を断じた位、この位でも色も形もありませんが、色や形の原因となる業の元になる元品の無明を残しているのでそれ以下の世界に応化が可能です。 仏界が菩薩界を互具していなければ、衆生を教化できないので、菩薩と仏が互具してこそ真の本仏・南無妙法蓮華経なんだと思いますが。
>>こういう考え方はあっても良いが、上行菩薩を筆頭とした地涌は菩薩界ですから九界所具の十界では無いのですか?
あなたが引用された遺文は、確かに九界所具の十界の根拠となる経文を宗祖が挙げた部分です。
しかし、寿量品の上行と釈尊の関係の仏界即九界、九界即仏界、本因・本果の話しをしているので、どうしてそれ以外の経文を釈した遺文は論点からはずれます。
その遺文があると、地涌の菩薩が釈尊所具の九界でなくなるのですか?
あなたも以前の投稿で上行等は釈尊の所具の菩薩界だと主張していたような気がしますが、私の記憶違いですか?
「寿量品に云く「是くの如く我成仏してより已来甚大に久遠なり寿命・無量阿僧祇劫・常住にして滅せず諸の善男子・我本菩薩の道を行じて成ぜし所の寿命今猶未だ尽きず復上の数に倍せり」等云云此の経文は仏界所具の九界なり」
「経に云く「我本菩薩の道を行じて・成ぜし所の寿命・今猶未だ尽きず・復上の数に倍せり」等云云、我等が己心の菩薩等なり、地涌千界の菩薩は己心の釈尊の眷属なり」
とちらも本尊抄の文ですが、「おかしいな」と思いませんでしたか?
「我本行菩薩道」は本仏の本因を表すのですよね。 その文に顕される本因とは「我等が己心」に具わる菩薩界でもあり、仏界所具の九界でもある、そういう事です。 -
No.4146
Re: 初発心の弟子
2013/08/19 12:33
>>No. 4142
お伺いします。 上行菩薩が釈尊の「初発心の弟子」と言うのは具体的にはどういう意味でしょうか?
「日興上人の初発心の弟子である地頭の波木井実長」と言う言い方もあります。
「初発心」とは始めて仏門に入る事に違いないですが、この波木井実長公の場合は、波木井殿自身が初めて仏門に入った時の師匠が「日興上人」です。
これと同じ意味で「初発心」だとすると、
Aまず釈尊が存在して、上行菩薩が初めて仏法に縁して教えを聞いた最初の師匠が釈尊であり、上行菩薩は始覚の立場である
これだと、上行菩薩は釈尊の本因ではなくなります。仏界所具九界が本因です。既に成仏してしまった釈尊が教化が目的以外で菩薩行をするはずがありませんから、上行菩薩が成仏していないと言うなら上行菩薩の修行は釈尊の本因そのものではなくなります。 それなら、上行の修行の他に釈尊の成仏の因を明かさないといけません。
次に、「初発心」を
釈尊が初めて仏門に入った時に最初に取った一番弟子と言う意味だとすると、
B 釈尊はまだ成仏していない段階で上行菩薩と一緒に修行した
事になります。 しかし、これでは釈尊は始覚になってしまい、仏界が存在しない時代があった事になり、有始の仏であり、釈尊は本有の仏界ではなくなります。 しかも、上行菩薩と一緒に修行したのでは、成仏も同時だったのか、それとも釈尊が先に成仏したのかがわかりません。 釈尊が先に成仏したとしても、有始の問題は解決しません。
さて、「教相上」の初発心の弟子とはどう意味でしょうか? -
No.4147
Re: 仏説
2013/08/19 12:40
>>No. 4145
>>現在では大乗は、仏説でないと言う事が一般的な学問になっているようだが
仏がゴータマブッダだけならそういう事になりますが、大乗では、経典を説いた人々が仏陀なので「非仏説」ではないですよね。
もし、ゴータマブッダ以外は仏でないと言うのなら、宗祖が言われる「小釈迦」とか「劣応身」も大乗非仏説になってしまいますね。 あきらかに、阿含経(蔵教)を説いた仏を劣応身、小釈迦と呼んで大乗の勝応身・大釈迦や、毘盧遮那報身などと区別していますからね。 -
No.4148
Re: ハトちゃん
2013/08/19 12:57
>>No. 4133
>>それなら、日興上人は他の上人から見れば間違った人物になるな?
そうなっちゃうと、六老僧は平等ではなくなり、日蓮宗(身延山)の主張と相反しますよね。 身延山にも日興門流が合同していますが、宗内で分裂の原因になるのではないですか。 -
No.4171
Re: 初発心の弟子
2013/08/20 02:27
>>No. 4152
>>師弟一如、因果同時です。
その通りですね。 師弟が不二である事が大事ですよね。 そうでないと、馬鳴菩薩、竜樹菩薩、天親菩薩の教えからも外れてしまいます。
大乗仏教の特徴として、
「仏と衆生を一体と見る」と言う事があります。
言葉を超絶した不思議の一法があり、それを妙法(正確には妙法蓮華)といいます。この妙法が真理です。
しかし、おなじ妙法に二面があり悟る覚者には清浄で空であり不動の仏界に、迷う衆生には不浄で様々な現象が移ろい行く九界に見えます。 妙法を真理とするのはわかりにくいので、真理を概念として掴むために、大乗以前の教えでは仏界が真理だと教えて来ました。 しかし、それは竜樹菩薩がいう「世俗諦」に過ぎず、言語を超絶した真実の教えである「第一義諦」を仏の慈悲で何とか言語を使って解き明かそうとしたのが、妙法蓮華です。
竜樹菩薩はゴータマブッダの教えをも「世俗諦」といいました。
弥勒、無着、天親(世親)菩薩が開祖である唯識の用語で言うと、仏界を仏だと悟る事を無分別智、九界と仏界の両者が一体不二であると知りその迷悟・因果・師弟の不二の姿である妙法を本仏と悟る事を後得智といいます。 如来だけが仏だと考えるのは、まだ本当の仏ではないのです。 仏界の仏と上行に代表される九界の一切衆生の迷悟が不二である姿の妙法蓮華がそのままの本仏・自受用身なのです。
大乗起信論でいう、真如と無明の相互関係こそが、釈尊と上行(乃至一切衆生)の関係となります。
それなのに、真如である仏界に業の色報があっては、起信論以来の大乗の基本が崩れてしまいます。
釈尊と上行の釈尊だけを仏と見るのも上述の理由で、世俗諦どまりになってしまい、第一義諦になりません。
天台大師智顗、妙楽大師湛然、日蓮大聖人と、何れも馬鳴・竜樹・天親の教えと矛盾する事なく法華経を説きました。
そして、宗祖が日本に出現して先人たちが理の上でしか説かなかった未曾有の仏を漫荼羅本尊として顕されました。
>>「温かい血の通った人格を持ち慈悲に満ちたあのお釈迦様が私たちの中にいらっしゃるのだ」
法身の境と報身の智が冥合する時、無限の慈悲から九界に応化した応身如来が出現します。
慈悲に満ちた人格としての「お釈迦様」は、上行菩薩の再誕である日蓮大聖人です。 それ以外のどこに末法の応身如来が出現しますか?
そして、日蓮大聖人の魂である境智冥合の仏は墨に染め流されて漫荼羅御本尊として姿を顕しました。 -
No.4172
Re: 仏説
2013/08/20 02:49
>>No. 4160
このスレッドの別の投稿でその事について触れました。 良かったら読んでみてください。
本当は、迷悟不二・因果不二の妙法が真理なのですが、それでは真理が掴みにくいので、真理を単純な概念化したのが、如来です。
大乗以前には、その如来だけが仏でした。 しかし、大乗ではそれは真の仏ではないのです。 仏と衆生とが二つに分かれずに不二で円融した姿こそが大乗でいう「言語を超絶した究極の真理」なのです。
仏界だけを仏と見てしまうと、煩悩を滅して涅槃に入ってしまい、以後衆生を教化しに出現しない仏になってしまい大乗仏教の出現が無意味になります。 -
No.13
Re: 「本門の教主釈尊を本尊とすべし」
2013/08/20 03:06
>>No. 12
>>つまり、本尊である本門の教主釈尊と我等信仰者との感応道交の世界が
>>「此の御本尊の寶塔の中に入るべき也」、「我等衆生の法華経を持て南無妙法蓮華経と唱うる肉に
>>御座します也」、である。
感応道交とは、仏と衆生の双方向の働きであり、 衆生が仏を目指すだけの一方通行ではない。
そしてそれは、九界と仏界が互具しあっているから可能な事でもある。 ただし、未だ悟らぬ所化が悟った能化の仏を差し置いて「我は仏に均し」と思えば、魔仏の教えとなるのは当然である。
しかし、上行菩薩は九界の上首・元初の菩薩界だから一切衆生から見れば能化にあたるのはいうまでもない。 本門の教主釈尊とは、本果の仏の面(釈尊)と、本因の仏(上行)の面を具えた因果同時・無始無終の自受用身であると言える。 本果の仏界と本因の九界とは、大乗起信論で言う真如と無明の相互関係である。 -
No.4175
Re: 初発心の弟子
2013/08/20 07:36
>>No. 4173
>>大恩ある本師本仏より上にして、本師を捨ててしまったら。これは法華経でもなく仏教では無いと
>>思いますがどうですか?
苦笑 日蓮大聖人が応身だとしても「本師本仏」を捨てる事にはならないと何度も言っています。 「日蓮がたましひ」である「南無妙法蓮華経」が自受用身ですから、本師・本仏・自受用身のお釈迦様を大事にしている事になります。 本師の境智が冥合した事により起こる慈悲から日蓮大聖人は人の子として誕生しました。
私たち衆生も眠っている自受用身が開発されて成仏すれば、応身如来ですよ。
「法身とは法身如来、般若とは報身如来、解脱とは応身如来なり。我等衆生無始曠劫より已来此の三道を具足し、今法華経に値ひて三道即三徳となるなり」の通りです。 それを上行菩薩は衆生に教えに出現するのですよ。
私の言葉で同じ事を長々繰り替えしても仕方がないので、誤解されている日蓮本仏論を明確に説明するためにも再度「百六箇抄」から引用して挙げておきます。
「 下種の法華経教主の本迹 自受用身は本、上行日蓮は迹なり」
「本化本尊の本迹 七字は本なり、余の十界は迹なり」
ついでに、御講聞書(日向記)の文も挙げておきます。
「衆生と云うは法界なり、所詮法界に理智慈悲の三を具足せり、応報法の三身・諸法の自体なり」
>>宗祖が書かれた本尊にはいろんな姿の本尊がありますが、師弟一如を顕している、四菩薩を顕した
>>本尊がわかりやすいと思っていますが、どうですか?
この点についてはその通りではないですか。 本尊上で四菩薩以外の九界が勧請されていなければ、地涌の菩薩が九界を代表しているとわかりやすいでしょう。
垂迹神については、日天、月天、明星天などを中心に、天を供養する形で行うのでは不足ですか。これらの善神は生身のまま妙覚位に昇った仏です。 法界が法身そのものなのですから、何も造形をしない法界そのものを日天が昇る東天に要約して、本仏の用の仏として供養する事では不足があるとは思えません。 宗祖も東天にお題目を唱えていたわけですよね。
漫荼羅本尊の他に文殊菩薩や賢菩薩が要らないのと同じで、わざわざ本仏の他に本仏の垂迹身を本尊として立てる必要はないのではないかと思います。 法界全ての善神はみな南無妙法蓮華経が当体です。 -
No.4177
Re: 初発心の弟子
2013/08/20 11:18
>>No. 4176
>>百六箇抄を日蓮の教えだとするのに、無理が有りますね
笑 それは全く今の論点じゃないでしょう。 あなたが偽書だと言うだろうと言う事を前提で、あなたが批判する大石寺の主張として挙げたのです。
そのあなたが批判する大石寺の相伝書とされる本因妙抄の中でさえも、「自受用身は本、上行日蓮は迹なり」とありますよと言っているのです。 あなたに真書として受け入れろなんて言っていません。
しかも、同時に「大石寺では、十界(釈迦・多宝を含めて)迹なり」と教えていると言っているのです。
だから、日蓮本仏論でさえ、本は南無妙法蓮華経と教えていて、あなたが推測して批判するのとは内容が違いますよ。 といいたいのです。
批判する前に批判する内容を先に理解してからにしないと、ただの上げ足取りになります。
では、日寛上人の教義だっていいですよ、どこがおかしいのか教えてください。 日寛上人のどこが法華の教えから外れているのか。 本因妙抄のどこが法華の教えから外れているのか。
法華の教義を考えるのに、文献学者がどうとかは通用しないですよ。 教理の内容で批判してください。
私には、大石寺の法主だっただけでなく、隆門との合同で運営されていた天台学の談林の化主をも務めた日寛上人が、私やあなたよりも天台学や法華経に疎かったとは到底考えられませんが。 -
No.4178
Re: 初発心の弟子
2013/08/20 11:41
>>No. 4176
>>日向記も中古天台本覚思想がでていて、偽書という方も多いですね。
では、お尋ねしますが、あなたの中古天台本覚思想の定義はなんですか?
本来の「本覚」と言うのは、「始覚」に対する言葉です。
それから、天台宗の法門が恵心流と檀那流に分かれていた、その法門を批判しているのなら、大聖人の在世に既に天台宗の顕教の流儀は恵心流と檀那流に分かれていたと思いますよ。だから、この恵心流と檀那流を指して批判しているなら、天台宗には顕教の法門は他には無いことになると思います。 後は、密教など法華ではない教えの流儀ももちろん比叡山にはありました。 しかし、天台の法門はこの2つに分かれていたので、この2者を否定すると天台宗で学ぶ事自体を否定する事になります。
恵心僧都源信は942年 ― 1017年の人ですし、
檀那僧正覚運は953年- 1007年の人です。
四条金吾殿御返事に、
「第十八代の座主は慈慧大師なり、御弟子あまたり。其の中に檀那・慧心・僧賀・禅瑜等と申して四人まします。法門又二に分かれたり。檀那僧正は教を伝ふ。慧心僧都は観をまなぶ。されば教と観とは日月のごとし。教はあさく、観はふかし。されば檀那の法門はひろくしてあさし、慧心の法門はせばくしてふかし。今日蓮が弘通する法門はせばきやうなれどもはなはだふかし。其の故は彼の天台伝教等の所弘の法よりは一重立ち入りたる故なり。本門寿量品の三大事とは是なり。南無妙法蓮華経の七字ばかりを修行すればせばきが如し。されども三世の諸仏の師範、十方薩・の導師、一切衆生皆成仏道の指南にてましますなればふかきなり。」
「されば檀那の法門はひろくしてあさし」
「慧心の法門はせばくしてふかし。」
「今日蓮が弘通する法門はせばきやうなれどもはなはだふかし。」
「其の故は彼の天台伝教等の所弘の法よりは一重立ち入りたる故なり」
「七字ばかりを修行すればせばきが如し」
の文を見れば、
宗祖がきちんと恵心流も檀那流も学んでいた、
恵心流は観心、檀那流は教相が主であった、
宗祖が恵心流の観心の法門をより重視していた
その恵心流の観心の法門よりさらに一重深く立ち入った、最深の教えが宗祖の教えである
しかも狭いようだけれど、七字だけを修行するのが一番深い観心の教えだ
とわかるではないですか。
偽書だと言うでしょうが、
「一字の一念三千とは慧心流の秘蔵なり」 就註法華経口伝 (御義口伝)
などを見れば、慧心流の影響を隠す意図はその頃の門下には無かったといえることがわかります。
御講聞書や御義口伝などを否定してしまうと、その内容と同じ事が書かれている真書まで否定する事になり、最後は御書全部を否定する事になると思います。
まさか天台六大部の影響を批判しているわけではないでしょう?? -
No.4182
Re: 初発心の弟子
2013/08/20 20:10
>>No. 4180
>>下記は学会の先生の御義口伝の見解。
あまり信憑性がある説にも聞こえないし、誰の説かそんな事は私には関係ありません。 内容の問題であって、私は学者の意見には興味がありません。 まあ万が一、偽書でも内容が大事です。
ところで、何故教理の話しから突然文献学などに飛ぶんです?
教えの内容で批判して欲しいと思って、「どこがおかしいのか?」と聞いています。
>>日寛が天台学に、たけていても、日蓮聖人の教えからは外れていては、どうしようもないよね。
今のところ、ちっとも何がおかしのかを論理的に説明頂けていませんが、もう一度聞きますよ、
どこの部分が教理的に、日蓮大聖人の教えと違うんですか?
今のところ、あなたは既に軽く十は重要遺文に相違した己義を堂々と主張した上に、説明を求めると最初に否定した説を持ち出したり、かなりの自語相違をなさってますよ。
説明できないのに、嫌いだから「おかしい」と言われてもね。
二、三でいいから、日寛上人の教えで、日蓮大聖人の教えと相違している事を「具体的」に教えてください。 -
No.4183
Re: 読み飛ばしていました
2013/08/20 20:32
>>No. 4180
>>一念三千を三つとする
あなたが引用した部分では「二つ」ですね。 良く見たら、以下の宗祖遺文が根拠ではないかと思います。 日寛上人と宗祖はほぼ同じ事を言っていると思います。
「問うて云く法華経は何れの文ぞ天台の釈は如何、答えて曰く法華経第一方便品に云く「衆生をして仏知見を開かしめんと欲す」等云云是は九界所具の仏界なり、寿量品に云く「是くの如く我成仏してより已来甚大に久遠なり寿命・無量阿僧祇劫・常住にして滅せず諸の善男子・我本菩薩の道を行じて成ぜし所の寿命今猶未だ尽きず復上の数に倍せり」等云云此の経文は仏界所具の九界なり、」
九界所具の仏界を「凡夫理性所具の一念三千か」
仏界所具の九界を「大覚世尊久遠実成の当初証得の一念三千なり」
と書いてあるだけです。 同じ事でしょう?
>>大覚世尊から日蓮にすり替える。
「今日蓮が時に感じて此の法門広宣流布するなり」がいけないんですか?
大覚世尊が悟った法を宗祖が広めて何が悪いのですか??? -
No.4184
Re: 初発心の弟子
2013/08/20 20:33
-
No.4192
Re: 初発心の弟子
2013/08/21 04:34
>>No. 4185
>>そのような発想は無いのよ。
どのような? 開目抄の「文の底にしづめたり」ですか? あるじゃないですか。笑
>>天台沙門と号す全く地涌千界の眷属にあらず。
そうですよ、本門を説いた上行菩薩ですよ、迹化薬王の後身の天台の沙門なわけないでしょう。
>>天台恵心流を踏襲
踏襲と言うとそのまま認めた感じがしますが、天台学の大方は認めていても、宗祖が「天台は迹門故にわざと説明されていない」と感じれば、きちんと宗祖流の解説を別になさっているでしょう。 迹門と本門、理と事の違いがあるので。
遺文にあるとおり、天台教学自体が二つの門流に分かれていたんですよ。 では、日蓮大聖人は比叡山で何をしていたのですか? 密教の修行だけですか?
>>日寛は三大秘法の宗祖が二種の一念三千として大学世尊の一念三千を広めていると。
もう一つの投稿でも出しましたが、
本尊抄
「問うて云く法華経は何れの文ぞ天台の釈は如何、答えて曰く法華経第一方便品に云く「衆生をして仏知見を開かしめんと欲す」等云云是は九界所具の仏界なり、寿量品に云く「是くの如く我成仏してより已来甚大に久遠なり寿命・無量阿僧祇劫・常住にして滅せず諸の善男子・我本菩薩の道を行じて成ぜし所の寿命今猶未だ尽きず復上の数に倍せり」等云云此の経文は仏界所具の九界なり、」
日寛上人の場合は、
「凡夫理性所具の一念三千か」を 「九界所具の仏界」
「大覚世尊久遠実成の当初証得の一念三千なり」を 「仏界所具の九界」
と言い換えただけではないですか?
「凡夫」が理上に具える一念三千 → 九界所具の仏界
「久成の釈尊」が悟った一念三千 → 仏界所具の九界
これ以外に、一念三千がない気がしますが???
>>日興は上記のように、久遠実成無作三身寿量品の仏を本仏とし
「日蓮聖人の云く本地は寂光」 寂光土は本仏の依報ではない?
「日蓮聖人の云く本地は本仏」 と何が違いますか?
「自受用身は本、 上行日蓮は迹なり」と同じ事ではないのですか?
>>本地は上行菩薩で釈尊の直属の弟子だぜ
普通は菩薩界は実報土なのですが、上行の本地が寂光土(仏)なので、そういう事になるんです。 あなたも師と弟子は一如だって言いましたね。 既に私は、本仏の境と智の冥合の慈悲から応身が九界に応化すると述べました。
釈迦(智)と多宝(理)の二仏が宝塔内に並座(冥合)して、上行菩薩以下の九界に応化(慈悲)します。
御義口伝や日向記まで偽書扱いにするから、遺文がわからなくなるんですよ。
もったいないですよ。 偽書の疑いがあっても、一応参考までに内容を吟味した方がいいです。
再度、挙げますが、
「其の故は衆生と云うは法界なり、所詮法界に理智慈悲の三を具足せり、応報法の三身・諸法の自体なり」 日向記
を良く読んで下さい。
なお、「七字は本、十界は迹」と「自受用身は本、上行日蓮は迹」は両立すると主張しているので誤解しないで下さいね。
>>日興には、日蓮本仏論はゼロだぜ。
「日蓮聖人云く、本地は寂光」
訳「日蓮聖人は本地は仏界だと云いました」
>>教主釈尊をすててないというが、本国土に仏は一人が日蓮聖人の教えだぜ。
教主釈尊を捨てていないです。 それから、六即って六つとも仏でしょう? 十界互具ですから。逆に五十二位だと、仏も妙覚の菩薩ですね。
お聞きしますが、仏がどうやって「所具の九界」を使わずに九界の衆生を教化するのですか? 仏が持っている菩薩界が上行でしょう?
「日蓮がたましひ」 → 釈迦如来の御神 → 南無妙法蓮華経 → 仏界
「(日蓮大聖人の)我が身」→ 九界
撰時抄では、宗祖の生身に釈迦如来の魂が入った事を一念三千であり「如是相」つまり応身如来だと説明しています。
以下は使用した語句の出典です。 よろしくどうぞ。
「釈迦如来の御神・我身に入りかわせ給いけるにや我が身ながらも悦び身にあまる法華経の一念三千と申す大事の法門はこれなり経に云く所謂諸法如是相と申すは何事ぞ十如是の始の相如是が第一の大事にて候へば仏は世にいでさせ給う」 撰時抄
「日蓮がたましひをすみにそめながしてかきて候ぞ信じさせ給へ、仏の御意は法華経なり日蓮がたましひは南無妙法蓮華経にすぎたるはなし」 経王殿御返事
「第二に如是相・是れ我が身の色形顕れたる相なり是れ皆仮なり相性体力以下の十なれば十法界・皆仮諦と申して仮の義なり是を読み観ずる時は我が身即・応身如来なり又は解脱とも申す」 一念三千法門 -
No.4193
ハトさん他
2013/08/21 04:53
いつまでも、このスレッドのハイジャックしたままなのも何ですから、私が新規に作ったスレッドに来ませんか?
http://textream.yahoo.co.jp/message/552019920/ead9eda66c1c6f57f0504f567c231378 -
2013/08/21 11:27
-
No.17
Re: 「本門の教主釈尊を本尊とすべし」
2013/08/21 12:59
>>No. 16
どうもこんにちは。
>>大石寺では日蓮本仏論を立ててますから本師本仏である釈尊を捨てているのではないですか、だから創価学会の人達が釈迦なんて駄目だ、釈迦の法の法華経なんて駄目だと教えて来たのじゃないの?
申し訳ないのですが、私は作成したスレッドをテーマで微妙に分けたつもりです。
このスレでは、日蓮本仏論と言う日蓮宗旨特定の問題については話し会いたくないのです。
久遠実成の釈迦如来について議論がおきるのは基本的には日蓮系が多いでしょうが、ここでは天台宗でも真言宗でも華厳宗でも法華経を用いる宗旨の方はどなたでも参加していただけたらと思うのです。 日蓮本仏論を持ち出すとどうしても特定の宗派間の論議に
出来れば、大変お手数ですが、下記のスレでお願いできませんか? もちろんこのスレはこのスレでで参加して頂ければ光栄です。 御理解をお願いいたします。
http://textream.yahoo.co.jp/message/552019920/ead9eda66c1c6f57f0504f567c231378

Re: 間違えたので再度投稿
2013/08/19 04:15
>>釈迦如来の智慧を現す法華経の名体宗用の教えの五字の法です。 仏の正悟の法である法華経の題目ですね。
そんな事一つも否定していませんよ。
>>宝塔内の二仏である 釈迦牟尼仏と 多宝如来を引き離す妙法蓮華経って無いよね。
そんな事も言っていません。
お釈迦様と多宝仏が塔内に並座して、さらに、仏界と九界が互具しているのが、本物のお釈迦様の姿だと言っているのです。
三十二相は、衆生を教化するために見せた垂迹の姿であって、仏界に色も形もありません。それだけの主張です。
仏界に九界が具わるから、その自身の九界を顕現して衆生を教化できるのです。 その仏界所具の九界が上行菩薩を筆頭とした地涌。
極めてストレートな主張じゃないですか。
文上の釈尊を釈尊でないと言っていないです。 真の釈尊の姿は十界互具の南無妙法蓮華経だけれど、その南無妙法蓮華経の真のお釈迦様が教化する相手によって応化して曼荼羅上の諸尊のいずれにも変わるのです。 多宝仏も文上のお釈迦様も、上行菩薩も、梵天もみなこの曼荼羅・題目と言う姿で表れされた普段は目に見えない本当のお釈迦様が変化した姿なのです。
とにかく、文上の釈尊の他に久遠元初の釈尊が居るわけではないです。 お釈迦様を馬鹿にしているわけでもないです。 真のお釈迦様の姿は南無妙法蓮華経だと言っているのです。