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投稿コメント一覧 (889コメント)

  • ぶらり昔旅

    蔵前
    徳川家の米蔵があったことから、現在も地名として残っている。
    徳川家の領地で収穫された米は浅草の米蔵に収納された。直参の旗本・御家人には各々の俸禄米の石高が記載された米支給手形札が交付されていた。それを米蔵の役人に提示して米を受取り、米問屋に販売して現金化して生活費とした。
    米の受取・販売の手続きは、武家自ら行うのではなく、専門の業者である蔵宿(くらやど)に依頼した。彼らは武家から預かった米支給手形札を割った竹串に挟み、蔵の前の藁束に突き差して手続きの順番を待つのが習わしであった。その光景から蔵宿業者を札差(ふださし)と呼んだ。
    蔵前は米問屋と札差の町であった。
    商人たちの活動が活発になり、貨幣経済が発展してきて物価が上昇してくると、米のみに頼っていた武家の生計は立ち行かなってきた。米の受取の時期が来る前に生活費が不足して、札差から前借りした。一年後や二年後の受取分まで前借りした者もあった。
    旗本でさえ年末になると年越し資金を借り入れたようである。ましてや微禄の御家人たちは、徳川家から支給される俸禄米だけでは一年間生活できないのは、最初から目に見えていて、都合のいい副収入が有ればともかく、札差からの借り入れに頼らざるを得なかった。
    武士たちが生計に苦しむ一方で、高利貸付で富を築いた札差のなかには吉原で湯水のように金を使う者もあった。
    幕府は、札差が旗本・御家人に対して持っている貸金の債権調査を行ったが、88人の札差が届け出た貸金の総額は120万両弱と莫大なものであった。
    当時は旗本・御家人が約2万3千人いたとして平均すると一人52両となり、1両を10万円とすると520万円となる。住宅ローンも無い時代としては過大であった。
    松平定信は棄捐令(きえんれい)を出して、5年以前の貸金は元利金の全額をカット、4年以降のものは元金はそのままで金利を年6%、今後の新規融資の金利は年12%とした。
    武士たちは一時的に喜んだものの、俸禄米だけでは生活できない状態に変わりはなかった。
    徳川家は直属の家来を養うことができない、兵力を維持できないことが露わになった。幕藩体制の先行きが見えてきたのである。

    現在の日本も税収だけでは予算が賄えない。毎年度札差からの前借りでやり繰りしていた微禄の御家人と同じである。

  • ぶらり昔旅

    武蔵野
    徳川家康が江戸に入府して街づくりを始めた当初は、日本橋や銀座は隅田川の河原か江戸湾の干潟であった。
    そこを埋め立てた土地であったため、井戸を掘っても飲料水にできる水は得られなかった。そこで武蔵野の井の頭池の湧き水を市中まで上水道として引いてきて利用した。
    井の頭、荻窪、中野、高田馬場、飯田橋、御茶ノ水に流れ、柳原土手を通り浅草橋、柳橋をくぐって隅田川にそそぐ神田上水であり、現在の名称は神田川である。
    江戸の人口が増えてくると、神田上水の水量では賄えなくなってきたため、更に上水道が必要になった。
    多摩川の上流の羽村に堰を造って分水し、四谷大木戸まで引いてきた。現在も残る玉川上水である。完成したのは1653年のことであった。
    西行(1118年〜1190年)が武蔵野を旅したときは、萱・薄などが生い広がる未開の原野であった。馬にまたがった人の姿が隠れてしまうほどの草原であったという。
    その後徐々に人の手が加えられていった。燃料の薪炭を得るために櫟・小楢などの雑木林が整えられ、食料のために田畑が開墾され、上水道が引かれていった。
    雑木林の小径を抜けると田畑が開け、その先にはまた林が繁っていた。林と田畑が散在する武蔵野の風景に魅了されたのが国木田独歩(1871年〜1908年)である。
    独歩は武蔵野を散策して行くなかで、魂が全てのものから解放されるような感覚を覚え、その思いを詩に込めたが、それは彼の全作品を代表する絶唱となった。
    山林に自由存す
    われ此句を吟じて血のわくを覚ゆ
    ………
    あくがれて虚栄の途にのぼりしより
    十年の月日塵のうちに過ぎぬ
    ………
    独歩は36才の若さでこの世を去っているが、その純粋な言葉は後世の人々の心にも染み入るものとなり、玉川上水のほとりには碑が建てられている。
    武蔵境の境山野公園は、独歩が散策した頃の雑木林がそのまま残されており、通称「独歩の杜」と呼ばれている。

  • ぶらり昔旅

    柳橋
    柳橋の地名からは花街、芸者という言葉が連想されるかもしれないが、時代小説の中の世界であり現在はその面影はない。橋のたもとに亀清楼(かめせいろう)が鉄筋コンクリート造りの料亭として現存するのみである。
    柳新二橋と言われた時代があった。柳橋の花柳界と新橋がその隆盛を競った時代である。
    新橋は、維新政府の基盤が固まり、霞が関が官庁街となり、その接待の場としてできた新興の花街であった。
    柳橋は江戸中期からの花街であり、芸者は辰巳芸者の流れをくむ者たちで、江戸の粋を信条とし、踊り、三味線、唄を基本から習得した文字どおり芸の者であった。
    柳橋に集まる得意客は、その粋と芸を鑑賞する眼を持った客であり、当然徳川時代に地位を築いた者たちであった。
    明治になり新政府の役人達も柳橋を訪れたが、粋も芸も鑑賞できる客ではなかったのである。接待しているときの芸者衆の心情は「あんた達は役人だそうだが、ついこないだまでは薩摩の芋侍ではなかったか」というものであり、媚びを売らなかったのである。
    一方の新橋は、イモだろうがカボチャだろうが客は客、と言ったかどうかは知らないが、明治政府とともに発展していき、立地条件の有利さもあって政府御用達のような状態になっていった。
    柳橋の花柳界にとって、決定な打撃となったのは、隅田川の護岸工事である。伊勢湾台風後、高さ4メートルの直立するコンクリート堤防が造られた。後にカミソリ堤防と言われるようになったものである。
    座敷の障子を開けると、目の前に隅田川が流れる景勝の地であったが、突然コンクリート塀が出現したのである。刑務所に入ったことはまだ無いが、塀の中の料亭になったのである。さらに追い討ちをかけるように交通渋滞緩和のために、東京五輪前には高架の高速道路が建設され、柳橋や浜町河岸の風情は破壊されたのである。
    フランス人が、オリンピックを開催するからといってセーヌ川に沿って高架の高速道路を造るだろうか、イギリス人がタワーブリッジの上に高速道路を通すだろうか。ドイツのライン、ドナウ、エルベの景観保護は見事である。
    2020年の東京五輪に向けて、日本は何を造り、何を破壊するのだろうか?

  • ぶらり昔旅

    熊本
    「おどま かんじん かんじん」と唄った少女が昔五木村に居た。
    「かんじん」は「勧進」という字が当てられることが多いが、これは「韓人」であろう。そうであれば曖昧であった歌詞の意味がすっきりとしてくる。
    「あん人たちゃよか衆
    よか衆 よか帯 よか着物」
    あん人たちとは、同年代の娘たちである。あん人たちはこの土地の家の娘なので(日本人の娘なので)、よか帯よか着物ば着せてもろとらす、と唄っている。
    平家の落武者の隠れ里に韓人の少女がいる状況にしたのは加藤清正である。
    秀吉の方針で韓国を攻撃し、蔚山(うるさん)城の激しい攻防では苦戦を強いられていたが、秀吉の死去で停戦して帰還した。その時約1000人の捕虜を連れてきた。目的は熊本城の土木工事であった。
    捕虜たちは一定の地域に住まわされ、そこを蔚山町(うるさんまち)とした。地名の名残りは現在もある。
    家康は清正がどのような城を築いているのか探索してきた。
    清正の館の奥には「昭君の間」がある。中国の婦人「王昭君」を顕彰する部屋というのが表向きの建て前であるが、「昭君」は「招君」であり「将軍」である。
    家康は秀吉の死後は必ず大阪城を攻めてくる。秀頼を熊本に連れて帰り、此処で徳川の全軍を迎え撃つ、そのための城造りであった。
    工事現場で働いている者たちの中でも、韓国から連れてこられた者たちは、城が完成したら自分たちは殺されるのではいかと不安になり、現場から脱出した。追っ手が来ないような山の奥のそのまた奥へと逃げ散っていった。その中の一つに五木村があった。
    今は亡き筑紫哲也と阿川佐和子がキャスターのニュース番組で取材クルーを派遣したことがあった。その時の村の長老の言葉は今でも鮮明に覚えている。
    「昔しゃ山ん中に朝鮮人がいっぱいおりました。あやっどま なーんば食とらっどか と思とりました」
    筑紫さん自身が帰化人であり、自分のルーツを確認する調査取材でもあった。
    熊本城築城400年記念祭の一環で、2007年10月に「日韓友情コンサート」が開かれ、蔚山市から市長以下60人の親善使節団が訪れて熊本市と和解し、友好協力都市協定が締結されるに至った。
    清正の蔚山の戦いから和解まで、400年の歳月が流れていた。

  • ぶらり昔旅

    鎌倉
    文部省の尋常小学唱歌に「鎌倉」という歌がある。その冒頭は、
    七里ヶ浜の 磯伝い
    稲村ヶ崎 名将の
    剣投ぜし 古戦場
    である。これは明治政府のプロパガンダであろう。
    古都鎌倉を訪れる歌の冒頭で、鎌倉幕府を打ち破った新田義貞を「名将」として位置付けている。そこに政府・文部省の意図が現れている。
    明治政府は、実体は薩長中心の政府であるが、大義名分は徳川から朝廷に大政が奉還されてできた天皇中心の政府である。
    鎌倉幕府は、徳川幕府と同様に朝廷をないがしろにした武士による政権であり、認めることはできないことは国民教育のうえで重要なポイントであった。
    長年徳川将軍のもとで生きてきた国民の意識を、天皇中心へと転換しなければならなかった。
    後醍醐天皇の命により鎌倉幕府を倒した新田義貞は、朝廷側の英雄だけでなく国民の英雄にしようとしたのである。

    国民教育の色彩が最も強く出ているのが鎌倉宮であろう。祀られているのは後醍醐天皇の皇子の護良親王(もりよししんのう)である。
    鎌倉宮に もうでては
    尽きせぬ親王の みうらみに
    悲憤の涙 わきぬべし
    新田義貞の働きで源氏の鎌倉幕府を打倒し、一旦は後醍醐天皇による執政となったが、実権はやがて足利尊氏に移された。源氏が足利に代わっただけの結果になってしまった。
    護良親王は天皇中心の政治体制を確立すべく活動したが、逆に足利尊氏の弟の直義に斬殺されてしまった。その名前は長い間歴史の中に埋もれていたが、530年後の明治2年に明治天皇によって親王を祀る鎌倉宮が造営された。
    唱歌「鎌倉」は小学校の教科書に掲載されて子供に歌わせた。親王(みこ)の御怨みを自分の怨みとし、共に悲憤の涙を流しましょう、という意図が窺い知れる。
    その流れはやがては天皇崇拝へと続いていく道であった。

    為政者によるプロパガンダは、往々にして「教育」のかたちをとることは世界史の中で枚挙にいとまがないことであろう。2015年10月の現在でも、お隣りの国々では「反日」の教育・洗脳が行われている。

  • ぶらり昔旅

    続 熊本
    親族の葬儀のために帰郷し、久しぶりに城に登った。
    櫨方門(はぜかたもん)から入り天守閣を望むと、石垣が何重にも連なり、その間のつづら折りの階段を登って行くことになる。
    この城を攻撃しても、石垣の上からの反撃で本丸にたどり着く前にみな殺しになりそうである。
    差し迫る徳川との全面対決に備えた、実戦のための城である。
    平日ではあるが、本丸御殿や広場は大変な人の賑わいである。
    加藤清正という人の思いとその城は、時空を超えて人々を魅了している。

  • ぶらり昔旅

    続 熊本
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  • ぶらり昔旅

    十思公園
    公園は人が憩う場所であるが、ここはその場所ではない。
    東京都中央区小伝馬町にある伝馬町牢屋敷の跡地である。
    江戸時代の二百七十年間に数十万人が投獄されていて、一万人が獄死したという。
    石川島(二)に記述したように、犯罪者と向かいあっていた長谷川平蔵の思いでは、根っからの悪党もいたが、半分くらいは真っ当な人間であった。軽い罪を犯した者は石川島の人足寄場に収容して三年間の職業訓練の後に社会復帰させたが、軽くはない罪を犯した者は小伝馬町に投獄されていた。
    吉田松陰に代表されるように打ち首になった者もいた。
    投獄されていた者たちの血と涙と怨念、嗟歎、絶望、未練、悔恨、諦念が染み込んでいる地に人は住めず、公園となっている。

  • ぶらり昔旅

    番屋
    江戸の町々には番屋があった。大阪では会所と言われたようである。
    町の地主や家主などが常駐して、治安維持や火災の予防などの活動を行っていた。
    奉行所の組織ではなく、町民自身による運営であったため、自身番と言われた。
    番屋では人別帳を管理していた。
    町で大罪人が出ると、連座して処罰されるので、素行の悪い者は日ごろから注視してその行状や、近隣の住民から訴え出られた内容を紙に書いて、人別帳の当人の箇所に貼り付けて管理していた。
    いわゆる札付きである。
    番屋の者たちが、当人を番屋にしょっ引いてきて、奉行所に差し出すような活動もやっていた。
    大きな商店でも、子弟から大罪人を出すと縁罪により店舗は閉鎖され家財没収となった。
    素行が悪く何をしでかすかわからず、立ち直りの見込みもないと判断したときは勘当の手続きをした。
    勘当になると人別帳から外されて無宿人となった。無宿人が何をしても親族に累が及ぶことは無くなったのであ。

    掲示板を町とすると、投稿者が住民で、IDが人別帳であり、ヤフーの掲示板管理者が自身番であろう。
    既に札が貼られているIDもあると思う。
    今後も、勘当も含めて厳しく自身番のお務めを果たしてもらいたい。

  • ぶらり昔旅

    胡麻菓子
    昨今伝えられるニュースを見聞きしていると、あらためて思い起こす言葉である。
    およそ二百年前に江戸で売られていた菓子で、小麦粉と胡麻を練り合わせて焼いてふっくらと膨らませてあった。
    饅頭のように中に餡子などがが詰まっていると思いきや、空っぽであった。
    以後、外見は立派であるが内容がないもの、内容がないのにあるように見せかけてあるものなどに対して、これは胡麻菓子だと言うようになった。
    「誤魔化し」は当て字のようである。
    最近の胡麻菓子は
    杭打ちデータの流用
    東芝の決算
    学校によるいじめ調査
    STAP細胞論文
    賞味期限切れ肉のハンバーガー
    憲法改正手続をしない閣議決定
    などがある。
    文明が進んでくると、相互に絡み合う複雑な社会構造となり、当初は一つの小さな行為のつもりが、結果は甚大な影響を及ぼすものとなる。
    他のデータの紙をちょっと貼り付けただけのつもりであろうが、建物の全面建て替えになる。
    肉眼では見えない小さな細胞をちょっと入れただけのつもりであろうが、かけがえのない有能な恩師を死に追いやり、組織解体身の破滅となる。
    江戸の胡麻のお菓子などは可愛いものである。
    閣議決定の影響はこれから出てくる。

  • ぶらり昔旅

    吉原
    台東区千束四丁目が、そっくりそのまま昔の吉原のある。
    昔のことはさて置いて、現在の町の様子がどうなっているのか、自分の目の確かめておきたいと思い、ぶらりと今旅をしてみた。(つづく)

  • ぶらり昔旅

    吉原
    訂正 自分の目で

  • ぶらり昔旅

    吉原
    訂正 吉原である

    (投稿制限中のためコビペが出来ず、間違いばかりですみません)

  • 東武浅草駅前から池袋方面行きの都バスで五つ目が「吉原大門」である。
    土手通りから吉原までの取り付け道路は、緩やかなS字カーブになっている。
    外の世界から吉原の中が直接見えないように、中の桃源郷から外の俗世間が見えないように曲げてある。
    その道路の形状は、今もそのままである。(つづく)

  • 昭和32年に「売春防止法」が施行された。遊郭の商売の根幹の部分が禁止された。会社でいえば、定款の冒頭の部分の営業目的が違法となったのである。
    当然、今までの業態は維持出来ず、遊郭を廃業し、遊女を整理して通常の旅館として町の存続を目指した。
    部屋と布団は売るほどあった。新たな設備投資は必要なかったのである。(つづく)
    (つづく)

  • テスト 投稿制限中

  • 制限中なので、長文の投稿はダメなようです。

  • しかし、吉原という町の旅館に、単純に宿泊だけの客は多くはなく、採算は取れなかった。(つづく)

  • そこで、新たに風呂屋を始めた。吉原なりの付加価値(?)を付けた風呂屋であった。(つづく)

  • 本業が取り締まりの対象になるという一大難局を、創意と工夫によって克服しようとしたのである。(つづく)

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