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投稿コメント一覧 (149コメント)

  • No.55

    折り紙

    2013/08/13 11:24

    目が見えない。
    随分と昔、子供の頃、友達と折り紙を折った。
    ある友達が病院へ入院した友達のために折り鶴を
    折ろうと云った。

    赤や緑や紫や黄色、それに空色のブルーや
    縞柄の色合いや、純白の色紙が素敵だった。
    色や白が、私の心を刺激する。

    私の記憶の中には、そうした色紙たちの色彩が
    私の心を支配している。

    それは、きっと、目が見えた頃、カラーの夢を観たからだ。
    友達たちや好きな男の子が花園で笑っている。

    黄色いコスモスを男の子へ差し出すと
    彼は微笑み、そっと花へ息を吹きかける。
    何処からか風が吹き、彼の髪を揺らす。
    友達たちは、はにかんだ笑いを見せる。
    私は、一輪の黄色いコスモスになりたいと願った。
    そして、上から注ぐ光へ手を差し出した。
    「ありがとう、ありがとう、神様!」

    折り鶴を手の感覚で、折り続ける。
    目の見えなくなった私は、色彩の記憶を頼りに
    私と、そして誰かのために
    折り鶴を折り続ける。

  • 2013/08/26 23:43

    お初です。
    以前から此方の掲示板を観ていました。
    興味があるからで、しかし、作家志望という立場では、見聞してはいません。
    たまたま書くことへの興味から、最近の人の嗜好へ興味を抱いています。
    で、想うのは、「なんでこんなに、ノウハウ的な書物が多いのか?」と疑問を
    抱いています。
    小説や散文や随筆にしても、喫茶店で目を通し
    「なるほどな~この人は、こう考えているんだ。
    で、何をしたいんだろう?」と疑問を抱くことがあります。

    思い出すのは、へンりー・ミラーがフランスで貧困の理由が
    不遇であるからで、自己責任を問うのであれば、詐欺さえ厭わないという
    立場には、驚かされた記憶があります。
    もちろん、ミラー自身には、アイデンティティーとポリシーらしき自尊心があり
    ながらも、文芸と対比した現実への開き直りにも等しい姿勢と
    「それが現実である」というシビアと矛盾した相克から、シュールなイメージが涌いて出たのでしょうか。

    いずれにしても、そうした書物を読む世代は、色々な感慨を抱く。
    「だから、どうなんだよ?」という処から、自分の知らない世界を知る手掛かりを持つことになる。

    で、知ることが行動の指針でないとしたら
    書物は、反面教師の役目を負い、嘘や妄想や虚言の巣窟となってしまいます。
    それが成り立つのも、現実だという理由からでは、話にならない。

  • No.22721

    ウイット

    2013/09/03 10:44

    ご返答、ありがとうございます。
    人、それぞれに生き方が在りまして
    それを「存在」というカギカッコで括るのもどうかな?
    という視点から、「何か、面白いものはないものか?」
    というのが本音であります。
    相田みつおさんが
    「そんかとくか人間のものさし
    うそかまことか佛さまのものさし」と書いていますが
    現状の価値観は「そんかとく」の周りを徘徊しているようです。
    もちろん、私もそれに洩れません。
    もっとも気掛かりなのは、中途半端じゃ詰らないことで
    詰まるような生き方がしたいと願うばかりです。
    そうした視点から、現実を無視することが「まこと」だと想えないのは
    自然な事だと認識します。
    「うそ」が自分が想像する佛さまの立場であれ、「うそ」だと認識できる
    ことへジレンマを感じないのは何故でしょうか?
    「そんかとく」へ関わる人のくせに、佛さまの価値観を僭越していると
    観るべきかもしれません。
    で、そうした筋道を辿ると、「従う」という意味が観えてきます。
    どうせ、損得勘定へ迎合するのであれば、いっそ、詰まるまで
    従おうじゃないか。詰まった先で達観があれ、そいつは従っている
    以上のものじゃない。という考え方です。

    詰まる想いが興味の対象で面白いから
    人のウイットを持っているのかもしれませんね。
    それは、面白いと想うから詰まる想いでもあるようです。

  • No.22723

    彷彿

    2013/09/03 20:38

    僭越ながら「ものを観る」のが
    個人的な発想から「面白い」という価値を基準にすると
    殺人や殺傷、あるいはテロとしての虚無理由を語り、自分が置かれた
    社会的な立場を語ることになります。
    カタストロフィーという立場が、その状況を説明することになるからです。
    それでは、そうした概念へ対比する虚無以外のものとは、どんなものでしょうか?

    生きていることが当たり前という概念を覆すものを想像出来ないとしたら
    既に、「あなたは死んでいる」というが私の考えです。
    自分の死を覚悟できない、「不死の生」の中で、生きているから
    虚無を語ることが出来ている、まして他人を厭わない。

    こうしたサイクルは、生の価値が与えられたものであるとする理由から
    能動の意味を問わないことから生まれているように感じます。

    物書きは、能動的な視点から、可能性を示唆することだと想う。
    自分の置かれた立場を理解することが、古今から問われているように
    示唆は、自分へ反映するものです。
    でなくて、物事を語る根拠を見つめるべきじゃないですね。

  • 2013/09/03 22:22

    おひさです、hirokd267さん。
    趣味は知識の幅を広げると同時に、多くの視点を与えてくれます。
    しかし、批評の多くをどう捉えるかが創作という意識を生むし
    また、自分が求めるものへの憧れと憧憬を確認することで
    それが自己表現への手段にもなっています。
    多くの批評家は、賛美と揶揄を繰り返し、その主眼たる処の
    「物事の捉え方」を展開しようとする発展の意志を表現します。
    万民が倒置するものの価値が揺らぎ、個の利害へ走れば走るほど
    倒錯とするデカダンスが個を主張する。

    前回の、大江さんと江藤さんの対談の趣旨は、創作という趣旨を
    問うものだと認識します。
    プラトンやソクラテスが発見した原理への展開が多くの批評と検証という
    立場を生んだように、創作がもたらす趣旨の検証が、発展の礎であること
    また、その評価が、能動的な示唆であるのを願います。

  • もちろん、方法論からスレッドの意味を
    プロトする過程を踏む理由を問う事はありません。
    無くて当たり前、という考え方を基準とすべきで
    前向きな理由を自分へ問うべきです。

    必要なのを、自分が必要とする理由を問うことで
    それが確執であれ、現実であるという理由は変わらないからです。
    「好きなものは好き」というスタンスから物事の確信は、生まれているし
    それへ近似した、自分が出来ることへの試行も、同じ想いがします。

    「確執」は、試行の動機です。
    イメージされた自己の発現と考えるべきです。
    その動機の根幹がマイナスとプラスであるとしても
    確執の動機を検証するからです。
    其処には、多くの物事の経緯や体験と経験が含まれ
    生きようとする確執があると想えます。

    存在の理由と原因が過程的に
    「タラレバ」で終わるとするなら、誰も、運命や宿命という命題を
    問うことはありません。
    鬱屈し厭世した不満は、誰もの心には、それが人為的な弊害であることを
    知っていると想えるからです。

    自らが選択することの意味と、その価値を問い
    自己責任が自滅を渇望するか犠牲であるのかは、あなたが
    現実を判断すると同時に、その想いが、イメージとなって
    あなたの中で生き続けるだろうことは、想像できます。
    「死なない」と想える理由は、そうした自己のイメージから
    生まれていると想います。
    そして、亡霊となって生き続けるかもしれません。

  • なげきなぞ誰も聞かない
    亡霊となって、みんなを怖がらせる
    その不安と恐怖へ自らが答えない以上
    なげきは続き
    「在る」ことが当たり前だった理由を自らへ問うのだ

    辻斬りの快感が忘れなれない
    刃の光沢が血を求めている
    まるで、刃が動機を求め
    光沢が快感の理由を問うていた
    ・・だから、理由があった

    生きる理由が死ぬための理由を模索する
    なげきは
    そんな処から生まれていた

  • No.855

    展開

    2013/09/14 19:50

    「生産性」という意味が、現在、問われているのは
    承知でわありませんか?
    未来予想と同時に、我々が確執しべき視点が、批評に含まれます。
    それと同時に、未来予想した結果が問われると想うのです。
    少なくても、評論と批評は、その趣旨から展開する意味を持つことであり
    確執を問うと同時に、其処から逸脱することです。
    我々は、そうした経緯を体験しています。
    想像が現実への糸口であることを示唆すると同時に、我々が目視しなければならない
    現実の展開が、其処で存在している事実を突きつけることが、批評の核心です。

  • 2013/09/16 10:07

    彼女の顔が蒼く観える。
    陰る額が亡霊をみるような気がした。
    「あなたは、私が死ねば良いと想っているのでしょう?」
    彼女は、愛されていないと想う。
    「私が会いたいと云うから、お義理で会っているのでしょう?」
    お金のことで苦労が苦労を生む。
    そうした経緯が人の関係を壊す。
    人が自分の利害の道具や玩具になり、いつでも遊べていた記憶を蘇らせる。
    まるで、自分に商品価値があった記憶が、利害を産んでいる。

    そして、ヒモは云う。
    「そんなオババへ金を出す奴が居るかよ?」
    「何云ってるの?あたしを愛しているって云ったでしょう?」
    「馬鹿野郎!誰が弛んだ女を抱くかよ!」

    そもそも、人には、匂いがある。
    どんなに、化粧していても、その人の匂いは消えない。
    それは、記憶であり、想いの匂いだ。
    日常の生活から生まれる臭気かもしれない。

    では、彼女は何者なのか?

  • 投稿へ感謝致します。
    持って場は、居酒屋のようなもので
    楽しからずして酒の意味を問うまじ、であります。
    酒が発展であることを願うのは、酒飲みの常套であれど
    楽しからずして、苦行を問うのは、遊びの真髄であります。
    反面を自己へ投げかけることこそが、探求であると信じております。
    要は、生きることへの探求への興味であり、其れゆえの、道義心であると
    考えます。

  • No.857

    2013/10/06 21:52

    我々は、生きていることを「当たり前」と想っている。
    当然、生まれたことの理由を疑問視しない。
    「在る」ことばかりが先行して、「在る」ことの理由を問いづらい。
    それは、現実だから、という理由だからだ。
    在ることを信じられない理由を問うのが世間だとして
    それでは、無いことを問うことが出来るだろうか?
    短絡の理由は、現実のサイクルへ迎合している。
    想像する理由が無いゆえの根拠だ。

    我々が束縛や確執の理念を正すとき、その反側する理念の理由が生きづく。
    環境や情況と状況への思念である。

    我々は思念から、翻弄される。
    生きようとする理念を模索するように
    また、状況への疑いを抱く。

    我々は、現実を無視することは無いだろう。
    しかし、現実へ対すすことが無い限り、現実は、自分を統制すると
    いう強迫観念を抱ているだろう。
    何故なら、我々は、其処に「存在」しているからで、根幹的な
    情況を問うことになる。

    それでは、「存在」のひらめきこそが
    批評の理由なのでわなあいか?

  • No.22895

    要点

    2013/10/19 16:44

    森村さんのNO22882は
    要点を得たコメントだと想いますね。
    偶然を描写するのは、必然性を認識しないと書けないですね。
    言葉の必然性が起承転結を生むし、またそれを認識しない
    文章は要点を得ないように想います。
    つまり、試行錯誤や無駄が出てくる。
    過程には、過程の理由があるだろうと想像する根幹を
    抱えていることがネックじゃないかな?

  • No.22946

    雷雲

    2013/10/27 11:20

    彼と知り合ったのは、僕が自殺を考えていたときだ。
    夏の雷雲が真近に迫り、ゲリラ豪雨が降り始めた。
    雷の轟が聞こえなかったのは、きっと、痛みを知らないのと
    観念的な死を安楽と捉えていたからだろう、雨に打たれる自分をヒロインと
    想像し、雷に撃たれ焼け爛れた肉体を想像すらできないでいる自分が居る。
    厭世や失意は、勝手な想像で、他人の想像や希望を受け付けない。
    絶望を道具とし、ヒロインに成ることを夢見ていたのだ。
    そう、多くの他人が語る自分でない物事の道理を辿りながら
    そんな事へ辟易している輩の失意を、雷雲は、容赦なく攻め続ける。
    ただ、自分でない何かを感じようとしていた。
    いや、それは、おそらく嘘だ。
    自分が、どうでもなれと開き直る中で、強く相手を意識している。
    相手への方向を探そうとしていたのかもしれない。

    それは、身近な想い。
    出来ることの想いの投影。
    影となって潜む想いへの、発露だったのではないだろうか。

    彼は、自分の家へ招き入れる。
    「いったいどうしたの?そんなに濡れて風引いちゃうよ。」
    不信げに見つめる視線から答える。
    「・・ただ、雨に打たれてみたかったんだ。」
    突然、彼の弟が云う。
    「兄ちゃん、この人、可笑しいよ。」
    「うるさい!黙って・・
    何かあったのかい?」
    何があったんだろう・・と、その言葉で、自分の中を探す。
    「いや、きみに会いたかったんだろうと想うんだ。」

  • No.22968

    2013/10/30 14:40

    最近、武芸のものを読んでいる。
    体術的なものや剣術的なもの・・含めて
    武芸が武道と名を成す意味を知ろうとしている。
    名を成す以上、それなりの意味があるだろうと推測する。
    「武」は、「たけし」と読むが「戦う」という意味を含むようだ。
    字が表すように「此れ」という「現在」が「式」という道理を冠している。
    つまり、攻撃から身を守る道理を表し、防衛の道理が形式という名で
    「道」という言葉で表現されていると考える。

    それでは、どんな状況から、攻撃や防衛という手段が選択されるのか
    疑問が生まれる。
    生死の危機や危惧と不安、それへ対応する生き方が、もし安楽と対比するものだとして
    それらが、虚言や妄想を想定するなら、現実は、認識を分けることになる。
    現実へ対応した認識から生まれる道理だと推察できるだろう。

    状況は、戦乱の中で「道」とした生き方を表し、生死を問うものだったに違いない。
    欲望と怨嗟、敵意と確執、野望と怨恨に対し、情況が殺意を抱き、状況を現実とする限り
    生死の判断を、武術へ飛躍させたのだろう。
    つまり、道理は、生き残る方法として武術を評価していたのだ。

    生き残る方法こそが、「生」というライン上にあって、「戦う」意味を成し
    独自の「道」を模索すると同時に、その道を後世へ問うものだったのだろうと想う。
    何故なら、生き方は、武道と同じように、その人の表現であろうとするからだろう。

  • 2013/12/03 20:02

    掲示板の目的が、それを逸脱して恣意や任意の意図を
    見せると誰もが警戒する。
    虚栄や誇示、生産性の無い目的を承認できないからだ。
    その恐れが、他の目的を想像させない。
    既存の意識へ従うならば、現実の方策を模索する手立てを
    考えるのが常套である。
    目的へまっしぐらであればあるほど、その目的を再度認識するだろうし
    また、他の意識など必要を感じないだろう。
    もの書きの多くは、そうした意識の道理を辿っていて、理解されることを
    目的に、筋道を表現する。
    現実と理由、そして道理としての現状認識が、意識を支えているからだ。

    しかし、人の感情は、現状認識を錯誤してしまうことがある。

    感情の表現の中で、こそ、現実の目的となる核心が宿り
    その表現の意識があると想えるときがある。

  • 2013/12/03 20:28

    きみがくれたのは
    赤い唇で
    黄色い吐息だった

    キスをすると
    舌が何かを探している

    喉の奥を唾液が流れ
    身体が熱くなる

    目を閉じてから
    どれだけ時間が過ぎたのか
    忘れていた

    父さんが酔って
    私を殴り
    私は、愛に不信を抱いた

    父さんが愛をくれないのは
    お金が無いからだと想った

    でも
    なぜか
    私は、悲しい
    涙をとめることができなかった

    お金のために
    からだを売る
    その度
    何かを探した

    私は
    なんのために生まれてきたんだろう
    私は
    誰のために生まれてきたんだろう

    でも、想う
    私は、父さんを忘れられない

    そう・・
    だから
    きみの唇が黄色いんだね

  • No.4

    接吻

    2013/12/16 11:34

    わたしの口の中が
    唾液から頬を締め付ける

    接吻から弾けた
    血潮の海で
    肉体の動きを観察している
    まるで
    音の発するものへ敏感である心が
    騒ぎ
    血潮の海を予感させる
    それほど
    私には、自分が何者なのか
    知る術を知らない

    閉じた貝殻へ耳を押し当て
    息吹きと、その囁きを期待する
    鼓動の脈動を感じたいと願っていたのかもしれない
    静寂の中で、たゆたう想いの理由から
    自分の中へ耳を欹てる

    ああ
    そうだ
    きみの肉体の美しさへ囚われる
    飽食の欲望を
    神へ問わねばならない

  • 「神」という言葉が誤解を招かぬために
    指針を示す。
    誤解を生む原因は、「神」という概念と、それへ伴う
    現実への希望と期待、そして自己の立場から発信する
    確執が恣意を迎合するかである。
    「神」が全能にして万能であるのは、信じる者にとってである。
    科学を信じる根拠を逸脱しないと、相反する利害があると自らへ
    証明しながらも、確執を信じる者にとっては、「神」など信じることなど、できまい。
    古今、「神」という概念は、抽象と印象、現実を変革する意思の象徴である。
    予測や予感、現実の変革の中で、自らが選択する意思を確認できないのは
    我々が、それらの示唆を確認できないこと、そして、なにより、不安と野望が
    潜んでいる。確執が動機を生み、その根拠を疑問視しないことだ。
    もちろん、その理由が、確執へサイクルするのは、自明である。

  • 2014/01/04 22:35

    なんとも掲示板の投稿も腐敗したものだ。
    之が、作家を志す者の投稿かと疑う。
    指針や志向、そして、自らへ答えようとする概念への疑問を
    抱かない輩たちが利害を求めて奔走しているとしか映らないのは
    自分だけだろうか?
    火事場の当人が、火事の理由を問うより、早く火事を消してほしいと
    願うように、延焼が他人を巻き込むと知り、それが大罪に値すると知るからで
    ある理由は、自分の行動が他人を巻き込むことへの懸念、つまり、自らの
    自己責任という意識があるからだ。
    そうした意識が無いとしたら、それは、罪を是認する行為であると言える。
    もちろん、罪という意識があってのことである。

    確信的な行為は、犯罪心理の動機を生んでいる。
    状況が情況を過程する動機は、派生的な問題を提示する。
    しかし、確信的な動機に於いては、自己責任を問うべきである。
    社会という概念と、自らの倫理へ迎合するものへの指針のない
    堕落と呼ぶべきものかもしれない。

    本来、家長たる者が、指針を失っているとしたら
    家族は、存続を維持できるだろうか?

  • どんな理屈を捏ねようが
    現実を現実として正確に捉えることが出来なければ
    それは自己満足の域を越えない。
    現実へ行動する事を使命されているのに、自己が矛盾を孕んでしまうからだ。
    欲望や怠慢や怠惰や虚無を抱え、その理由が欲望を満たす事と使命してしまう。
    欲望と大義を照らし自己の存在意義を模索しながら
    欲望という前提から、現実をマトリクスと感じるのかもしれない。
    マトリクスの意味は、現実を直視することだ。
    其処で使命感が無くては、現実を直視できないし、また
    そうした姿勢は自己へ還元されてしまう。
    自己の存在意義や理由へ、自らが答えることができないからだ。
    受動と能動の差異は、意志を表現することである。
    与えられた能力を表現することだ。
    自らの欲しない状況を還元しようとする意志こそが
    自らへ活性を宿し、その使命を自覚させてくれるという過程は
    過去の時代にもあったはずである。
    過去の賢人たちの遺産が、我々を牽引する動機を与えるとするなら
    我々は、その意志を感じるはずだ。
    生きていることの希望と絶望が表裏となって、我々を追い詰める。
    それは、自らが選択する意志、そのものだと
    胸を張って答える情況を与えている。

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