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投稿コメント一覧 (149コメント)

  • 栗色の髪の毛が短く刈られ、細面のふくよかな白い肌に太い眉が印象的である。赤いネクタイ、茶色のブレザーと短めのスカートから伸びる足首の細い足は、白いためか長く、また艶っぽく見える。駅前の雑踏の中を歩く、2人の女子高生のひとりを目で追った。ひとりはオリジナルの娘だった。

  • 誰かが好きで、誰かを想う。
    想うことが、私の心を開くような気がした。
    いつも、自分の事しか考えなくて、人を疑う。
    誰かを想い、怒りと憎しみが、自分を正当化しようとする。
    本当は、自分を好きになろうとした。
    傷つくのが怖くて、自分へ嘘ぶき、自分しか信じようとしない。
    何故なら、「裏切る」から・・。
    自分の事しか興味がないはずなのに、他人を中傷し誹謗した。
    人を愛しているのに、「愛している」と云えない。
    何故なのか、考えると、泣けてきた。
    大きな声を上げ、泣いた。
    ジレンマを誰かの責任にしたくて、何かをしないと、きっと
    自分は獣になると想った。

  • 以前、誰かが、こんなことを想う。
    数式で計算を繰り返し、答えが同じなのに、何故、計算しなければ
    ならないのか?確認から、認識を探すのは、別のルート(計算式)の
    状況を探す意味でしかない。目的が、多くのルートの理由を探る事で無い限り
    同じ事の行為は、無意味なのではないか?という疑問である。
    多くの理由が、認識への興味を刺激するというのだ。
    退屈は怠惰で、マンネリは刺激にならないと、そして、その理由の是非を
    問わない。
    慣習の意味を問うてしまう。
    怠慢の根拠だと、彼は、云う。
    もし、そうした考えで、彼は、自殺と死を、選択したなら
    シーシポスの神話など、愚の骨頂と映るに違いない。
    死と相対して、生の意味を問う時、認識では、動物以外の理念で在っても
    実際は、欲望を是認する生き物なのだ。
    主の保存、以外からは、語ることが出来ないのだ。

  • 同じ事の繰り返しを嫌い、何故、行為が、繰り返しになってしまうのか
    疑問を抱く。聡明な人間であれば、記憶を知恵とした。しかし、繰り返すことを
    「生活」とし「慣習」とした理由を、誰もが疑わない。
    環境が生活を保障し、環境を疑うことは、自己の基盤を疑うことでもあった。
    同じことの繰り返しは、「慣習」へ意識化され、日常へ普遍化する。
    日常を脅かす動機へは、敏感になった。
    もはや、欲望は、組織の理由を裏付けるものとなり、動機を陰湿なものとする。
    傀儡が本来抱く、無明の欲望を意識するものである。

  • どうも、こうした掲示板は、認識の差異から、自己満足を逸脱しない。
    意識しても、役に立たないという事実と、趣味の意識を逸脱しない。
    物事は趣味では進まない。慢性的な意識を問うているわけではない。
    理解するものは理解し、独自の発展をする。継続が、継続の理由を問うていたら
    それは、発展を想像できないのだ。
    自らを信じなくて、誰を信じよう?
    それが、孤独の理由なのだ。

  • 自分自身の感覚の中で、時々、想う。
    慢性的な感覚という錯覚だ。
    この感覚は怠慢で怠惰である。
    興味から志向へ失意しても、怠惰の理由を自らへ、語る。
    慣習の意味への疑問から否定が生まれ、そうした根拠を証明するものだ。
    実存や構造が、概念的な観念の拠り所を仮想としなければならない理由は
    反目的な立場を意識することである。もともと、想像の出来ないものを
    「現実」であると証明出来なければ,現実でないと想える。
    方法論は、そんな意識から、現実を照らし、他者を自分へ置き換える。
    怠慢を摩り替え、「怠惰であってはならない。」という形状への理由かもしれない。

  • もともと、言葉というのは、個人の意思を表現するものだ。
    それは、他者へ向けると同時に、自分へ語っている。
    言葉が社会性の意味を持つ限り、言葉は、社会性と倫理、道義、意思など
    公共的な物事に対しての、意味を問うことになる。
    自らの言葉の教訓が社会的な自分の立場を認識したり、意識する理由が
    個人を離れ、他者を意識する動機であると仮定して、個人が個人で在る為の
    証明へ繋がっていることもあるからだ。
    子供の頃、テレビからアニメを見慣れた世代は、勧善懲悪という言葉を聞いたことが
    あるだろう。「今」の世界を破壊しようとする者への懐疑である。
    何が善で、何が悪なのか?
    言葉を道義の計りに掛けたとき、打算以外で、何か観えないか問うのも面白い。

  • 物事の捉え方には、あるツールがある。
    偶然を必然と捉えるか、また、現実の(流れ)を意識して、それへ関連する物を
    払拭し得るものである。
    つまり、真実である。
    存在のツールの中に、理念が宿ると考えているようなのだ。
    それが、実存的な想いである。

  • 人が生きる理由を問う。
    それは、自らが精査しようとする意思だ。
    情況が怨恨を生み、死後が、怨恨の連鎖だとしたら、誰もが危惧を感じる
    のではないだろうか。死んでまで、意思を引きずるのか?という疑問である。
    では、生きている状況のとき、何を情況としたのかを、問われないだろうか?
    我々が、死を自覚した時点で、生は、現実を淘汰しようとする。
    それは、目的が在るからだ。
    我々が存在する目的、我々が生活する目的の果てに、見る未来である。
    それは、赤子の未来を想像することだ。

  • 現実から逸脱出来ない根拠の理由(仮想と、それへ逸脱した妄想)という展開が
    本当の現実を認識できるのかという意識である。
    生きる目的が認識できるという立場は、存在の根拠へ依存する。
    意識下で、存在(現実)を認識出来なければ、現実が観えない。
    根拠へ生きる目的が観えなければ、現実を語る理由がないのだ。
    我々は、生きている。
    その感動こそが、根拠だと、僕は、想う。

  • 仮定の想像は、現実を照らすものだ。
    想像が現実を照らす理由が、現実の状況である。
    状況は、我々の想像の核心である。
    しかし、想像を生むのは、現実である。
    現実への志向無くして、想像は生まれないのだ。
    つまり、仮定の根拠を知ることが、方法論を生む。

  • 山道を登って行くと、気づく。
    目的地の指標の先で、枝分かれする山道が現れる。
    登坂であるのと、空気の薄いためか、予想以上に、心労を感じる。
    まして、初めての場所であれば、方向性を確認できない。
    磁石や太陽の方向で、方位を確認出来るのだが、如何せん、そうした
    核心がないと疑心暗鬼が生まれる。
    登りと坂を繰り返し、夕方を迎え、僕らは、不安を抱き始めていた。
    そんなとき、山道の傍らで、黒い犬が、僕らを待っていた。
    「まさか、僕らの泊まる宿の犬じゃないだろうね。もし、そうなら
    道案内していることになるね。」
    「そうかもしれないわ。何故か、とても、賢そうに見えるもの。」
    「・・犬には、当たり前なことであっても、僕らには、必死だね。
    そう考えると、あの犬は、人を救っていることになるね。」

    笹藪の覆われた、直線的な坂道を登って行くと、湯煙が観えて来る。
    山頂の中腹に、僕らの温泉宿はあった。
    宿の玄関を入ると、傍らに、黒い犬が寝そべっている。
    「お疲れ様でした。」
    出迎える、女将さんらしき女性に訊ねる。
    「この、犬の名前は、なんというのですか?」
    「はい。クロと呼んでいます。道案内をして来ましたか?」
    「・・そうですか。おかげで、助かりました。」
    クロは、此方を見もせず、耳を動かす。
    「ご苦労様。ありがとう。クロ。」

  • 温泉郷の入り口の架橋で、黒い犬が寝そべっている。
    山道の入り口が四方へ別れる始点に在って、出店から人で賑わっている。
    光が架橋を照らし、光に揺らぐ、犬の姿が、妙に、核心を匂わせた。
    もちろん、勘違いなのだが、その理由は、結果だと想うからに違いない。
    僕らは、自由な気を促す、景色と情景から、犬へ会釈して、目的の温泉を目指した。
    山道を登り、ルートを確認し、後ろを見ると、黒い犬が後を追ってくる。
    ゆるりとした四本の足で、土けた坂道を登って行く。
    「きみの名前は、なんと呼べばいいんだ?(クロ)と呼べばいいのかな?」
    最初は、僕らが止まると、同じように、止まっていた犬は、僕らを追い抜いて行く。

  • 誰かが、「そうじゃない。」と云う。
    何かの理由から、未来が違うと想う。
    現実的な状況が、生きる条件を限定し、その根拠の理由から
    生きる根拠を喪失してしまう。
    人を傷つけ、その理由が正当だと想える。
    万民が狂気を抱え、妄想と幻想と自虐を願う構図は、ボッシュの絵を彷彿させる。
    互いの血肉を食らう修羅の構図である。
    快楽と享楽が、憎悪の中で増幅する。
    失意へ導かれ、感動を知らない想いが、目的を失う。
    しかし、「そうじゃない。」と想った想いなのだ。
    その想いが現実を見つめ続ける。

  • 安部公房を理由にするものは、何なのか、疑問を抱く閲覧者は居ると想う。
    安部公房の姻戚だから、宣伝したいとか、感動の理由が公的な利害だからとか
    理由を考えれば、勝手にしろ!という次元かもしれない。
    それでも、面白いよ!という意味が、伝わらないと、この掲示板の意味がないよね。
    実生活の中で、感動があり、それの意味を信じるとしたら、何も、公房だけじゃない。
    老齢化の進む現状で、若者が価値を信じなければ、意味が無い。
    僕らは、間違いを、そうした観点から認識してきた。
    しかし、記憶が、人を動かしているのも、事実です。
    公房は、その理由を見つめたかったのだろうと想う。

  • 基本は、自己の存在理由を照らして、自らの疑問を直視することである。
    興味は、疑問、そのもので、経緯の理由であり、存在の根源である。
    多くの文学の目的は、啓蒙が理由である。
    その理由は、画一化したものへの疑問だった。
    独創的な想いに、展開の発露があるとしたら、それは、慣習の怠惰かもしれない。
    もし、未来が観えるなら、答えよう。
    未来を決めるのは、あなただ。

  • 理由を根拠へ代える、根拠を理由の意味として
    現実を湾曲しても、現実は変わらないのに、そうした意識を認識できないと
    したら、書く意味が無い。
    認識故の書く行為なのに、慢心が故の行為なら、笑って欲しいのか?
    投稿など、意に介すまい。

  • 感想を形而下しないと下手な自分が観えるのだろうね。

  • 以前、会社の会議で、「前例的な実績」という解説を聞いた。
    前例的の意味は、会社への実績を意味する。
    つまり、利益への意識を奨励するもので、前向きな意識をテーゼするものだ。
    利益還元の意味は、労力への評価である。
    生産性と品質性が、個人の生きる力を評価すると信じているからである。
    人が人である前に、人の意味を知ることは、多くの経験があったとしても
    それの意味を評価するのは、自身である。
    人のためと考えるより、自身のためと考える理由が、何処に在るかで
    人の生き方が違うのだ。
    我々の労力は、生きる故の、前例に過ぎない。

  • 本当に、お久しぶりでした。
    お元気そうで、なによりです。
    「認識論的存在論」「存在的認識論」を例えると
    ニワトリが先か、卵が先かという発想に近いようです。
    しかし、そうした発想の根拠と、また認識の理由は、現実への発展を考えて
    いるからではないでしょうか。
    自分自身を含め、現実の未来を予想しようとする行為に想えます。

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