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ゆく株の流れは絶えずして、しかも、徒然なるままに……息抜きしながら探し物を…。の掲示板

加藤 暠(かとう あきら、1941年 - 2016年12月26日)は、
日本の相場師。1980年代に株投機(仕手筋)集団「誠備グループ」を率いて「兜町の風雲児」と呼ばれた。2003年には株式研究の会「泰山」を立ち上げ、業界に本格復帰。加藤が手掛ける銘柄は「k筋」「k銘柄」などと呼ばれ、晩年に至るまで強い影響力を持ち続けた。

経歴
生い立ち
広島県佐伯郡能美島(現・江田島市)高田生まれ。3人兄弟の末弟で母は2歳の時亡くなる。父親も相場師で投機の失敗から一家は離散。加藤は3歳のとき、広島市内の親戚宅に預けられ、1945年4歳の夏に爆心地から2キロの"舟入川口町(現中区)で被爆する。しかし、瓦礫の中から救出された。

子供の頃から勉強は良くでき1957年、広島修道高等学校に進学。高級官吏になるのが夢だった。しかし原爆の後遺症か高校二年のとき喀血、肺結核の療養にその後4年を要した。当時の結核はまだ難病で、霊峰宮島を望む療養所での生活が、後年の宗教へ傾倒するきっかけになったのでは、と言われている。

療養後の1963年、21歳のとき山口県立岩国高等学校に編入。早稲田大学商学部をトップで合格し上京した。早大在学中は勉強とアルバイトに精を出したが、アルバイトで儲けた金でギャンブルにも夢中になった。

職歴
大学をトップクラス(ほぼ全優)で卒業したものの、4年の遅れは大きく一流企業に就職する事は出来なかった。この体験が、加藤の一流会社憎悪になって現れ、徒手空拳で生きることを決意させたという。岡三証券に就職し、父親と同様に「相場師」としてのキャリアをスタートさせる。しかし、支店長と喧嘩し数ヶ月で退職した。

この後、和光産業(不動産)、日本経営開発研究所(経営コンサルタント)、根本観光などを転々。根本観光のキャバレー・クインビー新宿中央口店の呼び込みもやり支配人にまで上り詰めるが、自己の目標とは違い退職。

その後、娯楽機器販売会社の社長などを務める青年実業家(当時29歳)の個人秘書となる。再び株の運用で高い実績を挙げたが、この会社の社長の殺人(教唆)事件が発覚してこの会社を去った。殺し屋殺人事件としてしられる「中日スタヂアム事件」のことである。しかし、あくまでこれは裏の顔で、加藤はそのことに全く気がつかなかった。ちなみに、この人物は1989年に死刑が確定した。