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あとで気が向いたら読み返そうの掲示板

>>304

3:富裕層や多国籍企業への増税は「やる気の問題」である

変な言い方ですが、サエズ氏の本を読んでいて印象的だったのは、「富裕層や多国籍企業にちゃんと税金を課す」のは、「やる気の問題」であるということです。

「レーガン時代」以前までは、アメリカは累進税率もかなり高く、法人税も高い国と言われていて、特にそれが問題だと捉えられてもいなかった。

しかし、レーガン時代あたりから「税金は個人の財産権への泥棒だ」といったような理解が広まり、課税逃れを実際にする人が「先に」増えることで、後付け理論で税制がネオリベ的に転換してきたのだ…という分析が面白かったです。

そして、じゃあ80年代までアメリカが「富裕層や多国籍企業に厳しい態度」を取れていたのはなぜかというと、それは「戦争の記憶」、具体的に言えばフランクリン・ルーズベルト大統領の記憶…といったものであるようです。

戦前においても、「課税逃れを目指す富裕層と連邦政府との争い」は常にあったんだけれども、戦時中のルーズベルト大統領がかなり真剣に「そういう考え方は悪だ」と言ってまわり、具体的な規制を次々と打ち出し、実際に摘発もしていったことで、「富裕層や多国籍企業が高い税率を払うのは当然だ」という風潮はギリギリ維持できていた。

しかし、第二次世界大戦の記憶=ルーズベルト的価値観が薄れてくると、ちゃんと「富裕層への課税に対する多くの人の共感」を得られなくなってくるわけですね。

そうすると、実際に課税逃れも増えるし、理論的裏付けを唱える経済学者や政治家に働きかけるロビイストたちが現れることで政策が転換されていった。

日本においても、アメリカ型格差社会に近かった戦前から、戦争中の「国家総動員体制」を経ることで、「日本型雇用モデル」を中心とする昭和の「一億総中流」的社会が実現した…という指摘はよくされていますよね。

ライターの赤木智弘氏が「「丸山眞男」をひっぱたきたい 31歳フリーター。希望は、戦争。」という論考を2007年に発表して当時話題になっていましたが、「現代の個人主義的文明社会が果てしなく社会を“個人”だけにバラバラにしていくと、富裕層への課税といった政策課題への合意すら本能レベルで雲散霧消してしまい、結局そういう社会の存続すら危うくなってしまうのだ」という人間社会の真実とぶち当たっているのかもしれません。

バイデンの演説はかなりルーズベルトを意識しているという話があります。

単なる「議論」を超えて実際に「国家」を動かすには、トランプ派を黙らせるだけの「愛国心のコア」として、民主党側の象徴的記憶としてのルーズベルト的なものが必要だということなのかもしれません。

そして、「米中冷戦」「対コロナ戦争」を強調することで初めて、「富裕層や多国籍企業」への増税を正当化し、「アメリカは再び動き出した!」と宣言することができつつある。

最近日本でも話題になっているマイケル・サンデルの新刊『能力主義は正義か』では、

「アメリカの有名大学を中心とするエリート主義が、無意識に“普通の人”を見下していることがトランプ的ポピュリストの反撃につながったのであり、そういう能力主義とは隔絶した“国民にとっての共通善”という概念を取り戻すべきだ」

という議論がなされていますが、こういうのも同じ「時代の気分」として今後立ち上がってきているものなのだと思います。

先程、「アメリカ型の経済学」を転換する役割を果たしているのはフランス人が多いという話をしました。

サンデルはアメリカ人ですが、若い頃英国留学経験もありますし、そもそも専門分野が「欧州的な政治哲学」なのは明らかです。

これは、「アメリカ型の何でも政治争点化して果てしなく糾弾しまくる傾向」への反発をフランス人インテリが表明しつつある流れや、おりしも欧州サッカーの「スーパーリーグ」といういかにもネオリベ的な改革が「草の根サッカーファンの反発」で頓挫しつつあるように、「個人だけが存在する」世界観への大きな転換期に、今の世界はあるわけですね。

その「欧州型共同体思想」だけでは単なる「インテリの内輪の話」ですが、それに ・アメリカにおけるフランクリン・ルーズベルトの思い出 ・欧州サッカーにおける、有名ビッグクラブだけでない比較的無名なローカルチームへの狂気レベルの地元の思い入れ といった「ナショナルなもの」を共鳴させることで、本当に具体的な「格差是正策」を動かしていくことが可能になるのだと言えるでしょう。

日本においても、「ネオリベ路線を拒否する共同体主義的理想」を「受肉」させるヨリシロとしての、「フランクリン・ルーズベルト」や「欧州サッカーのローカルチームへの狂気レベルの思い入れ」的なものを用意できるかどうか?それがこれからの課題でしょう。

そういう意味で考えたい余談なのですが、先ほど紹介したサンデル『能力主義は正義か』の感想で「アンチリベラル派のネット論壇の面々が言ってきたことと近い」という意見がいくつも見られたことが非常に興味深かったです。

それが何かをざっくり言えば、いわゆる「ポリコレ運動」が、アメリカにおいて「大卒でない白人男性」に対してあまりに攻撃的な態度に出過ぎることは問題だよね…といった話がサンデル本には書かれているんですが、日本における「立憲民主党がポリコレ的理想ばっかり掲げて、最大多数を占める無党派の『まずはこの不景気をなんとかしてくれ』という切実な願いの実現を二の次にしている(ように見える)から、いつまで経っても支持されず自民党に勝てないんだ」という批判を「トランプ支持者が増えた理由」と重ね合わせているということです。

とはいえトランプや自民党を支持しないリベラル派からすれば、「国会議事堂を暴力で占拠するトランプ派や、公文書を改ざんする自民党政権の方がよっぽど酷いことをしてるじゃないか!」と反論したくなると思います。

ただ「中間層の復活」路線を単にインテリのオシャベリに終わらせるのではなく、「フランクリン・ルーズベルト的紐帯の中心」に昇華させるためにこそ、「大卒でない白人男性」的な存在にも納得してもらえる姿勢や方法論を打ち出す、つまり「批判を受けて立つ」必要はあるんじゃないかと私は考えています。

その話については「サンデル新刊「能力主義は正義か」と日本のネット論壇が描く新しい未来像」というnote記事でたっぷり書きましたので、興味のある方はお読みいだければと思います。

4:アメリカ人が団結する「ルーズベルト的理想」を日本でどう用意するか?
日本でも、今後この大きな世界的流行は重要性を増していくはずです。

アメリカの場合は「フランクリン・ルーズベルト」という「(ポリコレ的にも)正しい記憶」を呼び覚まして、国民の糾合の本能的裏付けにすることができますが、日本においては、「昭和の一億総中流」を支えたバックボーンとしての「国家総動員体制」に対して一方的なスティグマを貼る風潮が激しいところが、なかなか難しい部分となるかもしれません。

日本における保守派グループが、MMTなどを通じた「国民総中流への回帰」を目指す時に成立させている議論の方向性には、ある種の一貫性はあります。

一方で、日本社会の「みんな」主義的なものに反発を覚えたり、日本の保守派の一部が持つ歴史修正主義的な傾向に反発を覚えたりする左派の人は、今後日本において「バイデン民主党が本能レベルで呼び覚ます起点となっている“みんな”主義」のようなものを、日本でも同じように持ち出せるにはどうしたらいいのか?について本質的に考えることが必要になるでしょう。

左派的理想を、「草の根の民衆的感情」のレベルまでしっかりと結びつけ、「トランプ主義」的なものとガチンコで押し合っても負けない紐帯を作り出す、「左派的な愛国心の旗」に仕上げることが必要になる。

アメリカにおいて本能レベルで成立する議論が、日本においては難しい部分がそこにある。

「バイデンの理想」の背後には中国という「欧米社会の外側の敵」が本能的に前提されているとしたら、非欧米国である日本において同じ「理想」を、単にインテリ世界の内輪トークでなく、国民全体の深い共感を呼び覚まして具現化するのに必要なことは何なのか?

結局その先では、戦前の日本の「欧米の帝国主義への必死の反撃」をしていた部分をちゃんとフェアな目線で名誉回復した上で、一方でその大きな流れに巻き込まれた、国内外の戦争被害者への平等な補償や敬意を持った接し方を両立させていく…という難しい課題に直面することを意味するのだと思います。

先日、網野善彦という日本史学者の議論を参照しながら、「アメリカ的なリベラルの先鋭化」をいかに「日本的な調和」の中に包み込むべきか?という議論をしたnote記事がそこそこ好評をいただいたのですが、「バイデンの改革」を日本でもやるには、単なる欧米文明の延長ではない、自分たちの歴史的経緯や紐帯のコアにさかのぼって考える、もっと根底的な「捉え返し」が必要とされるようになるでしょう。

そしてそれは、前回記事「「人権か中国市場か」ウイグル問題に揺れるユニクロやアシックスはどんな態度で臨むべきか」で書いたような、「中国の領土的野心にちゃんとNOと言うためにこそ、欧米文明中心主義とは離れた独自の視座を提示することが日本の使命となる」といった話につながってくるはずです。