IDでもっと便利に新規取得

ログイン


ここから本文です

一つの焦点は、世界の片隅である極東の日本の、さらに田舎である京都の、さらに田舎である伏見区の、さらにマイナーな事業である花札屋であった任天堂の作る製品が、世界の最先端文明が湧き上がっているアメリカの西海岸で好まれているのかは不思議なことです。

これが解明されないと、世界市場でローカルな任天堂の製品が評価されている理由は説明できません。

もう一つの焦点は、今度はアメリカの西海岸で開花したコンピュータ文明の正体はどんなものであるかということが説明されることです。

さらに、それが媒体として機能し、任天堂の文化と組み合わさり動作することで、どのように機能するのかということが、正確に分析され説明されるということです。

任天堂を理解するということはこの辺りのことをちゃんと説明できるということです。

それができないと任天堂の価値を説明することができず、任天堂の株価を算定する起訴要件が提起できないということになります。

それはホルダーとしては困ります。それができないと、そこらのアナリストとの決定的な違いを出すことが少し難しいということです。

もっともこの辺までになると少しこだわりが強過ぎますが、まあある程度のところまでは見えていないといけないでしょう。

要ばこれまでもここで書いている媒体論と娯楽ソフト論のそれぞれのことと、それを製品として統合した製品像ということになります。