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沖縄師範学校女子部と第一高等女学校の生徒からなる、沖縄陸軍病院に動員された「ひめゆり部隊」の悲話を、ひめゆり記念館で聞かれた方も多いかと存じます。
戦争に翻弄された女学生の運命に、だれもが涙をながし、戦争を本心憎む。

戦後、生き残ったひめゆり部隊の生徒の何人かは、コザの孤児院で働いていました。父母の記憶もなく、自分の名前さえわからない幼い孤児たちは、過酷な環境のなかで、多くが餓死、病死いたしました。
「孤児たちにとって、ひめゆりの生徒さんは、母のようであった」と生き残った孤児たちは感謝しています。

戦争中、沖縄南部の人里離れたところに、朝鮮人慰安所がありました。
艦砲、爆撃と戦火が激しくなるにつれ、彼女等は、ひめゆり部隊とおなじように、日本の兵隊さんの救護に献身的に貢献したと伝えられています。

戦後、本島北部羽地村の孤児院では、元朝鮮人慰安婦が働いていました。
元慰安婦に育てられた孤児が、「日本語は分からないが、子どもたちの洗濯や世話をしてくれた。美人で、とても優しかった」と証言しています。

誰も、好き好んで慰安婦になったものはいません
戦後70年以上たった今でも、その過去を隠し続けている元慰安婦も多いと聞きます。

どういう気持ちのおりあいの上での、激戦下の献身的看護活動だったのか また戦後日本人の孤児達を温かく育てたのか・・・・
彼女らもまちがいなく、もうひとつのひめゆり部隊といってよいと存じます。

今や、すべてが忘却の彼方

合掌