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2366(最新)
禅助(ぜんじょ)
1247~1330
鎌倉時代末期の僧。
父は中院通成。
1259年3月、法眼の叙される。
1263年8月、権少僧都。
1265年11月、仁和寺法助について
灌頂を受け、のち法印大僧正となる。
1292年から東寺長者となり、
東寺座主・仁和寺別当に補任された。
1320年7月、東寺長者を辞す。
元徳2年2月11日、寂す。84歳。 -
2365
専順(せんじゅん)
1418~1489
室町時代中期の連歌師。
連歌七賢の一人。
京都六角堂頂法寺の執行を勤め、
法眼に叙せられる。
文明4年、立華・砂の物・生け花の
三様に版華をわけた。
飯尾宗祇が師事したこともある。
延徳元年に没す。72歳。
句集は、『法眼専順句集』『専順独吟』。
作法書に、『専順法眼之詞秘之事』等を
遺した。 -
2364
千秋親昌(せんしゅうちかまさ)
生没年不詳
南北朝時代の神官。
父は千秋範広。
摂津守。
父の跡を継ぎ、尾張熱田大宮司となる。
1335年、北条時行配下の三浦時継が
尾張に逃れてくると捕縛、京都へ送る。
足利尊氏が建武の新政から離反すると、
新田義貞軍に加わって尊氏を破り、
また箱根で直義軍と戦う。
1338年、北畠顕家の西上軍に従い、
以後は南朝方として転戦した。
のち剃髪し、源雄と称す。 -
2363
旃室周馥(せんしつしゅうふく)
生没年不詳
室町時代後期の僧。無学派。
南禅寺玉潭中湛の法嗣として禅学を
修める。
永正年間、天竜寺住持となる。
著書に、『翰林残膏』がある。 -
2362
宣光門院(せんこうもんいん)
1297~1360
鎌倉末・南北朝時代の皇族。
藤原実子とも。
父は正親町実明。
母は三条公貫の娘。
祖父洞院公守の養女となる。
花園天皇の後宮に入り、南御方と称す。
寿子内親王・源性入道親王らを生む。
1332年1月、従三位。
同年12月、准三后。
1338年4月、院号宣下を受け、
宣光門院と号す。
1348年11月、落飾。法名は遍照智。
延文5・正平15年9月5日、崩す。64歳。 -
2361
全玄(ぜんげん)
1112~1192
平安末・鎌倉時代初期の僧。
父は藤原実明。
1164年1月、大僧都に任ぜられる。
1180年12月、無動寺検校。
1184年2月、天台座主。
1186年閏7月、後白河院から源義経の
捜索を命じられる。
1189年、大僧正・法務に昇進した。
建久3年12月13日、寂す。81歳。 -
2360
千家孝宗(せんけたかむね)
生没年不詳
南北朝時代の豪族。千家氏の祖。
出雲国造。
父は千家孝時。
千家氏は天穂日命の後裔で
代々出雲国造として出雲大社の
神職を世襲している。
兄清孝の死後に、弟貞孝との間に
継嗣争いが起こり、双方が互いに
神事を奉仕することが決まった。
孝宗は千家、貞孝は北島と称して
国造の家は分立した。 -
2359
潜渓処謙(せんけいしょけん)
?~1330
鎌倉時代後期の僧。武蔵国出身。
はじめ円覚寺の仏光禅師に師事、
のち東福寺の聖一国師に参じる。
1320年、筑後承天寺に住したが
その後帰京して東福寺住持となり、
さらに南禅寺へ歴住する。
後醍醐天皇の帰依を受け、
普円国師の号を賜る。
その後は播磨宝光寺・摂津澄心寺、
さらに伊勢浄法寺を開山。
元徳2年5月2日、寂す。
著書に、『潜渓録』がある。 -
2358
善慶(ぜんけい)
生没年不詳
鎌倉時代前期の仏師。
善円・善慶・善春らと同じ善派に属す。
はじめ般若寺の文殊菩薩の頭部を
つくり、法橋に叙せられる。
1249年、清涼寺式釈迦像を製作。
1258年の初秋頃に没したという。 -
2357
禅暁(ぜんぎょう)
?~1220
鎌倉時代の僧。
父は源頼家。
母は昌寛法橋の娘。
『尊卑分脈』や『承久兵乱記』では、
童名を善哉とするが、兄である公暁と
同じであるので定かではない。
承久2年4月11日、実朝を暗殺した
公暁と同意の嫌疑をかけられたため、
京都東山辺りで北条義時に誅殺された。 -
2356
禅観(ぜんかん)
生没年不詳
鎌倉時代の僧。
長聖と号す。
常喜院覚心に従う。
大和国海住山に住み、
のち如意輪寺に移る。
建長年間に戒壇院円照に招かれて
梵網経の緒論を講じたほか、
諸寺でも招かれ講座を開いた。
著書に、
『鈔三巻』『文集』十九巻
がある。 -
2355
仙華門院(せんかもんいん)
?~1262
鎌倉時代の皇族。
曦子内親王。
父は土御門天皇。
母は源有雅の娘、大宮局。
1244年12月、親王宣下を受け、
斎宮に卜定される。
1246年、御嵯峨天皇の退位に伴い、
退下。
1248年8月、御嵯峨上皇の准母となり、
皇后として入内。
1251年3月、院号宣下があり、
仙華門院と号す。
弘長2年8月21日、崩す。 -
2354
仙覚(せんかく)
1203~?
鎌倉時代の僧・万葉学者。常陸国出身。
鎌倉新釈迦道で権律師に任ぜられ、
のち武蔵国比企郡に住む。
若い頃か『万葉集』の研究を志し、
1245年、『万葉集』諸本を閲覧する
機会を得て、翌年にそれまで無点歌の
百五十二首に新点を加えた。
この件で万葉集研究が飛躍的に進んだ。
1253年、新点歌を奉状と添えて
御嵯峨天皇に奉じる。
以後も万葉集の研究を続け、
1266年、『万葉集註釈』二十巻を
完成させた。
万葉集註釈は、
別名『万葉集抄』『仙覚抄』ともいう。 -
2353
善円(ぜんえん)
生没年不詳
鎌倉時代前期の仏師。
彼の作品に、
承久3年銘の『十一面観音像』、
嘉禄元年銘の『釈迦如来像』、
宝治元年銘の『愛染明王像』など。
彼の精巧かつ優美な作風は、
藤原彫刻の特色を示している。 -
2349
禅慧(ぜんえ)
生没年不詳
鎌倉時代後期の僧。
字は教王房。心一とも称す。
興福寺に住し、湛秀と並び称される。
のち頼照・定海に師事し、真言を学ぶ。
晩年、相模極楽寺の住持になる。 -
2348
詮慧(せんえ)
生没年不詳
鎌倉時代前期の僧。近江国出身。
顕密二教を学び、論義に長じる。
道元が宋から禅宋を伝えたことを
聞いて深草を訪れ、その弟子となる。
のち永興庵を開いて住す。 -
2347
善阿弥(ぜんあみ)
1386~1482
室町時代の作庭家。
初めは寅、又は虎菊と称したという。
『蔭涼軒日録』・『鹿苑日録』のほか、
『大乗院寺社雑事記』の史料によれば、
善阿弥は足利義政に遇されて室町殿を
はじめ相国寺の蔭涼軒・睡隠軒などを
造り、また興福寺大乗院の庭園改修を
行ったとされ、作庭家としてはじめて
歴史に名を残した人物になる。
同じく作庭家の善阿弥に、
二代目小四郎や三代目又四郎がいる。 -
2346
世良田頼氏(せらたよりうじ)
?~1272
鎌倉時代の武将。
上野国新田庄世良田郷の領主。
父は世良田義季。
世良田氏は新田・得川・徳川など、
史料により姓の表記が異なる事が多い。
1244年、新田本惣領の政義が幕府から
嫌疑を受けて蟄居を命じられて以来、
世良田氏は半惣領の地位を得た。
1272年、『二月騒動』に巻き込まれ、
咎めにより佐渡へ流され同地で没す。
江戸幕府創始者である徳川家康は、
松平から徳川(得川・世良田)に改名。
改名前の松平氏も世良田氏の後裔とし、
新田源氏を称していた。 -
2345
世良田義政(せらたよしまさ)
?~1364
南北朝時代の武将。
父は岩松政経。
伊予守。
上総守護。
貞治3・正平19年7月27日、
足利基氏の勘気に触れて追討を受け、
翌日28日に兄弟や梶原景安とともに
鎌倉の如来堂で自害した。
所領は弟の岩松直国が引き継いだ。 -
2344
世良田政義(せらたまさよし)
生没年不詳
室町時代の武将。
実在不詳の人物。
父は世良田満義。
大炊亮を称す。
1397年、桃井宗綱と計って宗良親王の
遺子を上野国寺尾城に迎えた。
1424年、遺子が信濃諏訪城に入ると
その令旨に応じて挙兵するが、
三河に向かう途上の浪合において戦死。
この事績には史料が乏しく、
はっきりしない。
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猫 2021年4月7日 01:30
【スレ主専用掲示板】
※ 返信は難しいです。理由はレスが非常に遅い為。
荒らし等はご遠慮ください。よろしくお願い致します。
気まぐれ投稿です。
名のある方達を記載。
(鎌倉 ~ 江戸初期頃まで)
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